ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【第1回】道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」についての一考察-カント道徳教育を中心にー|はじめに【教育倫理学】

 1.はじめに

  平成30年度告示『高等学校学習指導要領解説 総則編』にもあるように、わが国は挑戦の時代を迎えている。

 

【参考: 『高等学校学習指導要領解説 総則編』(平成30年度告示)】

 

 様々な社会変化があるが、特に身近な働きがインターネット経由で最適化され「IoT」 など「Society5.0」の到来が社会や生活を大きく変えていくと予測される。

 

【参考:Society5.0】


政府広報「Society5.0」(「ドローンの株式会社ダイヤサービスDAIYASERVICE Inc.」より)

 

  このような社会背景の中で、小学校や中学校はもちろん平成30年度告示『高等学校学習指導要領』でも、「主体的・対話的で深い学び」の授業実践が求められている。

 

【参考: 『高等学校学習指導要領』(平成30年度告示) 】

高等学校学習指導要領

高等学校学習指導要領

 

 

 そこで、特に高等学校での道徳教育を念頭に置き平成30年度告示『高等学校学習指導要領』での目玉である「主体的・対話的で深い学び」を、カント的に捉え直すことが本稿の目的である。

 

 手順として始めに、『教育学』と平成30年度告示『高等学校学習指導要領』を比較しながら、カントの道徳教育に関する基本的考えを検討する。

 

 次に、『実践理性批判』や平成30年度告示『高等学校学習指導要領解説 公民編』での道徳的教育方法について考察する。

 

 最後に『啓蒙とは何か』での「理性の公的な利用」という概念に注目し、高等学校道徳教育での「主体的・対話的で深い学び」とカントの道徳教育に関する捉え方について検討していきたい。

 

 このように、カントという人物を通して平成30年度告示『高等学校学習指導要領』での「主体的・対話的で深い学び」を検討すれば、現代の道徳教育への新たな視点が得られるかもしれない。【続く】

 

【第2回】ネコの路上死|路上死を防ぐ2つの方法【地域猫活動】

「座布団の下に潜む猫」の写真

 

 

 ネコの路上死について、前回は以下のような記事を書いた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

今回は、後半部分である。

 

[内容]

【第1回】沖縄県の現状        

【第2回】路上死を防ぐ2つの方法

 

■路上死を防ぐ2つの方法

  ネコの路上死を防ぐために、次の2点が有効であると考えられる。1つ目は「ネコの完全室内飼い」、2つ目は「猫バンバンプロジェクト」である。

 

・ネコの完全室内飼い

 前回の記事にも書いたが、ネコの「縄張り意識」は強い。ネコは、「食べる場所」や「寝る場所」が決まっている。「食べる場所」や「寝る場所」などが道路と反対側にあると、れき死するリスクが高まる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 首輪を付けているにも関わらず、飼いネコを外に出して飼う「あいまいな飼い方」をすると、ネコは外に「縄張り」を作ってしまう。

 

 地域ネコ活動や保護ネコ活動を行う地方自治体やボランティア団体などは、ネコの「完全室内飼い」を推奨する。

 

【参考:沖縄県:一生うちの子プロジェクト】

inuneko-okinawa.jp

 

【参考:2018改訂版 捨てないで篇(沖縄県 一生うちの子プロジェクト)】

www.youtube.com

 

 大前提として、ネコは絶対に外に出さない。脱走防止のため、飼い主はドアや網戸の設置などを行わなければならない。

 

 我が家はネコを4頭飼育しているが、その点について細心の注意を払っている。このような対策を行えば、家の外に「縄張り」を作らずに済み、悲惨な路上死を防止できる。

 

【参考:猫の脱走防止策は必須!玄関、窓、ベランダ、手作りの方法を紹介!】

neko0613.info

【参考:キャットタワー】

 

・猫バンバンプロジェクト

 

 飼いネコの場合「完全室内飼い」が有効である一方、地域猫の場合、車にひかれないよう注意し、見守ることが1番である。

 

 その方法のひとつとして、日産自動車の「猫バンバンプロジェクト」を紹介する。

 

【参考:日産 猫バンバンプロジェクト】

www.nissan.co.jp

  

 寒くなると、街のネコたちがエンジンルームやタイヤの間に入ってしまうことがある。気付かずエンジンをかけてしまい、悲しい事故につながるケースが多い。

 

 冬は車に乗る前にボンネットをバンバンと軽く叩くことで、ネコたちの命を守ることができる。寒い時期に、適した行動である。

 

【参考:#猫バンバンPROJECT MOVIE by NISSAN


www.youtube.com

 

 現状では、路上死したネコは「燃えるゴミ」として処分される。悲惨な死に方をしても、猫はしょせん「モノ」扱いである。

 

 しかし、彼/彼女たちも、われわれと同じ食料を獲得し子育てをしながら、仲間関係を維持しつつ生活している。ネコもわれわれ人間も、地域に生活圏を持つ一員である。

 

 このような悲しい事故を防ぐためにも、ネコの習性を理解し、お互いが住みやすい社会を実現していきたい。【終わり】

↓その他参考文献↓

 

【第1回】ネコの路上死|沖縄県の現状【地域猫活動】

「首を掻く猫」の写真

 

 先日、通勤中に、ネコの路上死を目撃した。目撃する度に思うのであるが、もしかしたら、落とすべきでない命を救えたはずだ、と心を痛め、自らの無力さを感じる。

 

 仕事から家に帰る途中、走ってくる車を避けながら道を横切るネコを見ると、「死ぬな」と心の中で祈る。

 

 「縄張り意識」のある彼らの習性上、道を横切ることは、やむを得ない場合もある。

この辺りを、われわれ人間は理解しなければならない。

 

 ということで、今回は「ネコの路上死」について2回に分けて記事を書く。

 

[内容]

【第1回】沖縄県の現状 

【第2回】路上死を防ぐ2つの方法

 

沖縄県の現状

 

 2016年『沖縄タイムス』に、以下のような記事が掲載された。

 

【参考:沖縄タイムス(2016年4月12日付)】

www.okinawatimes.co.jp

 

 記事によれば、沖縄本島の国道と県道で車に轢かれるなどして、死んだネコが回収された件数は、2015年度2,684件に上った。1日に約7頭が、れき死している計算である。2014年度の県内のネコの殺処分数、2,679頭と匹敵する。

 

 ちなみに、平成30年度『事業概要ー人と動物の共生をめざして』(沖縄県動物愛護管理センター)によれば、沖縄県動物愛護管理センターに収容されたネコの頭数は年々減少傾向にある。

 

 しかし、終末処分率は75%といぜんとして高い。

 

参考:平成30年度『事業概要ー人と動物の共生をめざして』(沖縄県動物愛護管理センター)】

https://www.aniwel-pref.okinawa/app/webroot/js/kcfinder/upload/files/%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E6%A6%82%E8%A6%81_HP%E7%94%A8%E5%9C%A7%E7%B8%AE%E7%89%88.pdf

 

 記事のデータとして古さも感じる(※)が、外で生活するネコの寿命は、平均3年だと言われている。「令和元年全国犬猫飼育実態調査」によれば、飼いネコの場合、平均15歳程度である。

 

 外で生活するネコの死因1位は、「路上死」である。

 

【参考:令和元年全国犬猫飼育実態調査】

petfood.or.jp

  

 「路上死」に至る原因は、2つ考えられる。

 

 1つ目は、ネコの飼い方である。よく見かけるのは、首輪を付けているにも関わらず、飼いネコを外に出して飼うことである。これは記事にもあるような、「あいまいな飼い方」である。

 

 2つ目はネコの習性である。記事によれば、車が迫ってくると犬はよけるが、ネコはその場で固まってしまう。

 

 加えて、指摘したい点がある。それは、ネコの「縄張り意識」である。

 

 ネコは「食べる場所」や「寝る場所」が、ある程度決まっている。その「生活圏」である「縄張り」を、毎日決まった時間にパトロールする。

 

「縄張り意識」は、メスよりオスの方が強い。「食べる場所」や「寝る場所」などが道路と反対側にあると、れき死するリスクが高まる。

 

【参考:子猫のへや】

https://www.konekono-heya.com/

 

 

 以上が、ネコの路上死の実態と背景である。

 

 では、われわれはどのように痛ましい路上死を減らし、外で暮らすネコたちに具体的に配慮しなければならないのか。

 

この点は、次回に譲る。【続く】

 

(※)県内の犬猫殺処分数は、減少傾向にある。2019年度に県内で殺処分された犬猫は644匹(速報値)で過去最少になり、17年度から3年連続で県が目標にしている1,500匹を下回った。しかし、実態はボランティアなどの方々による収容所からの引き出しが、大きな要因である。www.okinawatimes.co.jp

↓その他参考文献↓

 

【ハイデガー】存在と時間|「自我」の存在否定

 

  ハイデガーは「das Man」という概念によって、近代的な「自我」としての「私」を否定したとされる。

 

 川原栄峰によれば、ハイデガーの「das Man」という概念は、20世紀の人々に大きな衝撃を与えた。デカルトやカントなどが生きた近代以降、独立自存した「自我」としての「私」が存在することは、当たり前の事実として認められてきた。しかし一方で、ハイデガーはこのような独立自存した「自我」としての「私」の存在を否定する。

 

 今回は、ハイデガーの「das Man」という概念を、以下の2つの手順で検討する。

 

 1つ目は、「das Man」という概念を原語、すなわちドイツ語に即して検討することである。「das Man」は、日本では一般的に「世人」あるいは「人々」と訳されることが多いが、邦訳された語で検討するよりも、原語で表現される「das Man」という語で考えた方が、ハイデガーの意図がより明確に読み取れる。

 

 2つ目は、「das Man」の特徴である「公共性」について検討することである。ハイデガーは、「das Man」の特徴として「懸隔性」、「平均性」、そして「均等化」を挙げています。このことを、竹田青嗣の解説を参考に検討する。

 

 以上の2つの手順で「das Man」という概念を検討することによって、この概念を比較的明確に理解することができる。具体的には、以下の内容である。

 

[内容]

■「das Man」とは誰でもない「誰か」

■「das Man」の特徴とは「公共性」

■「das Man」は現代の生きづらさに示唆を与えてくれる

 

■「das Man」とは誰でもない「誰か」

  まずは、「das Man」を原語であるドイツ語に即して検討する。ドイツ語で「das Man」のmanは、人を表す不定代名詞である。日本語では、「ある人」とか「世の中の人々」と訳される。

 

 「das Man」の邦訳である「世人」という言葉からも分かるように、「man」は一般的な人を指す。「das Man」は、「man」という語に中性の定冠詞である「das」が付いたものである。定冠詞「das」は、男性名詞でも女性名詞でもなく中性名詞に付く。このことから、「das Man」は男性でも女性でもなく、中性的な「誰か」を意味する。

 

 『存在と時間』の中で、ハイデガーは「das Man」を「この人でもあの人でもなく、自分自身でもなく、何人かの人々でもなく、そして全ての人々でもない」と規定している(邦訳:p.240上段)。

 

 この定義からも分かるように、ハイデガーは、「das Man」として特定の人物や集団を表現するわけではない。むしろ、「誰でもない誰か」を「das Man」として定義していると言える。

 

 以上のように、「das Man」は特定の人物やある人々の集団ではなく、「誰でもない誰か」として定義され、このような人々が日常性の存在のあり方を規定していると、ハイデガーは考えた。

 

■「das Man」の特徴とは「公共性」

 

  次に、「das Man」の特徴である「公共性」について、竹田の解説を参考に検討する。竹田は「das Man」の特徴として、「公共性」を挙げる。「公共性」には「懸隔性」、「平均性」そして「均等化」という「das Man」の存在の特徴が含まれるとされる。

 

 それでは「公共性」に含まれる「das Man」の存在性格を順に検討する。

 

【参考:ハイデガー入門】

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

ハイデガー入門 (講談社学術文庫)

  • 作者:竹田 青嗣
  • 発売日: 2017/04/11
  • メディア: 文庫
 

  

 まず、「懸隔性」について検討する。「懸隔性」とは、他者と自分の区別を常に気にする「das Man」の性格である。人間は、普通の状態で自分の「自我」の同一性を保持することが、最大の関心事である。しかし、「das Man」は自己同一性を持たず、他者との境界線を常に曖昧にしている。このため、「das Man」は常に他者との比較や評価によって自己を確認しようとする傾向がある。それによって、他者との区別があいまいになることを避けようとする。

 

 それは、もっぱら他者と比較してどのくらい優位な状態にあるか、ということで計られる。そのような他者との比較が可能なのは、この「懸隔性」が「das Man」としてのわれわれの中に存在するからである。

 

 次に、「平均性」について検討する。「平均性」とは、「das Man」としてのわれわれが、現実的に当然としているもの、人が通用するかどうかを決めたり、成果を評価する基準となるもの、あるいは人が成果を是認したり否認したりする基準となるものが、「das Man」の特徴である。

 

 「das Man」としてのわれわれは、善悪の価値判断や社会的に認められているものを注意深く吟味することがなく、むしろ無自覚に、このような世間的な価値判断を受け入れ、それに向かって自らの「自我」の同一性を保とうとする、ということになる。

 

 「均等化」は「平均性」の中で、個性的なものや異質なものを均一化する傾向がある「das Man」の特徴であると言える。「均等化」とは、「das Man」としてのわれわれが、「平均性」の中で、突出したものや個性的なものを排除する「das Man」の特徴である。

 

 ハイデガーによれば、われわれは皆が同じようにならなければならないという均質化の圧力を感じ、突出したものや変わったものを排除する傾向があるとされる。

 

 日本には、「出る杭は打たれる」ということわざがある。特に日本では、ある集団の中でその集団とは異なった人間や異質な人間を排除してしまう傾向が強いとされている。

 

 「均等化」として表現される人間の性質を、ハイデガーは「das Man」という存在として表現し、それを人間性の中に見出した。

 

■「das Man」は現代の生きづらさに示唆を与えてくれる

  

 われわれはハイデガーの「das Man」について検討してきた。その結果、ハイデガーは「das Man」を特定の人物やある人々の集団ではなく、むしろ「誰でもない誰か」として定義したことが分かった。この「das Man」には「懸隔性」、「均等性」そして「均質化」という「公共性」が存在することが確認された。

 

 近代以降、われわれは独立自存した「自我」の存在を認めてきたが、20世紀になってハイデガーは「自我」の存在を否定した。その考えは、彼の「das Man」という概念からも読み取ることができる。

 

 SNSの普及により、われわれは「個」として存在することを望む一方、「つながり」を求めることもある。また、会社や学校などで、集団とは異なる人間や異質の人間を排除する傾向から「いじめ」や「ハラスメント」などが見られる状況もある。

 

 現代の生きづらさを考える上で、ハイデガーはわれわれに何らかの示唆を与えてくれるかもしれない。【終わり】

 

【参考文献】

Heidegger.M,1927:Sein und Zeit

(邦題:存在と時間、原佑・渡辺二郎訳、『世界の名著 74』所収、中央公論社、1980)。

川原栄峰,1981:ハイデガーの思惟、理想社。 

高田珠樹,1996:ハイデガー存在の歴史(現代思想冒険者たち第08巻)、講談社

竹田青嗣,1995:ハイデガー入門、講談社

 

※ このブログの趣旨に反するが、学生時代に書いた小論文を加筆修正して掲載した。

 

↓その他参考文献↓

【第4回】人間以外の動物への倫理的配慮の基準は「苦痛」だけでは不十分である|まとめ【動物倫理学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 4.まとめ

 以上、今回はピーター・シンガーとベンサムの「功利主義」を中心に、人間以外の動物への倫理的配慮の基準となる「苦痛」についての主張を整理した。

 

 その後、久保田さゆりの主張を参考にしながら、「苦痛」だけではない「動物の豊かな内面」という、新たな基準を提示した。この点に関して、伴侶動物に注目しながら議論を進めた。

 

  確かに、道徳的配慮の基準を「苦痛」だけに絞り動物を一般化することは、単純明快で理解しやすい。ただし亀山純生も指摘するように、この基準を「動物の権利」として一般的に理論化することは、われわれを倫理的に根本的な矛盾に陥らせる。

 

「苦痛」という人間以外の動物への倫理的配慮の基準だけでなく、それ以外の基準も設けながら、彼/彼女らへの倫理的配慮について見直す必要がある。【終わり】

 

【参考文献】

亀山純生,1995:「動物の権利」論と動物倫理への基本視点、『日本獣医師会雑誌 第48巻12号』所収、日本獸医師会、1995年.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jvma1951/48/12/48_12_929/_pdf/-char/ja

【第3回】人間以外の動物への倫理的配慮の基準は「苦痛」だけでは不十分である|久保田さゆりの議論【動物倫理学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

3.動物の「豊かな内面」への理解ー久保田さゆりの議論

 

 久保田さゆりもピーター・シンガーの考え方にも、基本的には賛成である。その理由として、久保田は次の2点を挙げている。

 

 第1に、痛みはその倫理的な重要性の否定しがたい特徴である。われわれ人間も、苦痛を感じ苦痛を避けたいと考える。このことは、明らかである。

 

 第2に、痛みを感じる能力の有無について、ある程度科学的に示すことができる。他の人が、自分と同様に苦痛を感じると想定することが正当化されるならば、人間以外の動物の場合には、それが正当化できないとする理由はない。

 

 われわれが苦痛を感じるような状況に置かれた生理学的な反応や兆候も、人間も人間以外の動物も同様である。人間以外の動物への倫理的配慮の基準になる「苦痛」について、このように久保田はまとめている。

 

 しかし久保田によれば、人間以外の動物への配慮を考える際に、「苦痛」という側面に注目することだけでは十分ではない。人間以外の動物の倫理的な重みを正しく評価し、その問題を本当に深刻なものとして理解するため、「苦痛」だけでなく人間以外の動物が感じる「豊かな内面」について理解する必要がある。

 

 ただし人間以外の動物がこうした内面を持つ存在でないならば、配慮が必要でないということではない。「苦痛」を感じることも、「豊かな内面」を持つことも、配慮を考える際の様々な考慮事項の中のひとつである。

 

 内面的な豊かさを持つ存在に「苦痛」という側面だけから見るのではなく、その内面的なあり方がどれほど豊かなものであるかを念頭に置いた上で、どのような配慮がなされるべきかを考えることが、倫理的な配慮のあり方として適切な態度となる。

 

 久保田の言う「豊かな内面」に注目するという視点は、犬猫などの伴侶動物と関わるとき顕著である。野生動物に対して、伴侶動物は、人間と関わりながら生活することが前提である。伴侶動物は、昔から密接な関係を人間と結んできた。生存のためだけでなく、安心や満足といった精神的な面で伴侶動物は、人間を他の動物より必要とする。

 

 伴侶動物は、単に痛みを感じるだけでなく、喜んだり何かを期待したり楽しみを感じたり誰かに愛着を持ったりするという「内面的な豊かさ」を持つことは、彼/彼女らとの関わりから確認できる。

 

 「内面的な豊かさ」を持つ存在として理解することによって、伴侶動物への積極的な配慮ができる。このような積極的配慮が、伴侶動物以外の動物への配慮の契機にもなる。

 

 久保田によれば、「苦痛」という倫理的配慮の基準だけで、人間以外の動物を一括りに考えてはいけない。野生動物を「野生動物として」、家畜動物を「家畜動物として」そして伴侶動物を「伴侶動物として」われわれは理解しなければならない。

 

 単純に「苦痛」という基準だけでなく他の要素も加えながら、人間以外の動物への倫理的配慮について考えなければならない。【続く】

 

【参考文献】

久保田 さゆり,2016:動物の倫理的重みと人間の責務 ー動物倫理の方法と課題ー 千葉大学大学院人文社会科学研究科、2016年.https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/103626/IBA_0033.pdf

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 

【第2回】人間以外の動物への倫理的配慮の基準は「苦痛」だけでは不十分である|シンガーの議論【動物倫理学】

 

【前回の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

2.「苦痛」という感覚が唯一の判断基準ーピーター・シンガーの議論

 

 シンガーは、その著書『動物の解放』で次のように述べる。

 

 もしある当事者が苦しむならば、その苦しみを考慮に入れることを拒否することは、道徳的に正当化できない。当事者がどんな生きものであろうと、平等の原則は、その苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に―おおざっぱな苦しみの比較が成り立ちうる限りにおいて―考慮を与えられることを要求するのである。もしその当事者が苦しむことができなかったり、よろこびや幸福を享受することができなかったりするならば、何も考慮しなくてよい。だから感覚(sentience)をもつということ(苦しんだりよろこびを享受したりする能力を厳密に表わす簡潔な表現とはいえないかもしれないが、便宜上この感覚ということばを使う)は、その生きものの利益を考慮するかどうかについての、唯一の妥当な判断基準である。知性や合理性のようなその他の特質を判断基準とすることは、恣意的であるとのそしりを免れないであろう。(邦頁30)

 

【参考:動物の解放 】

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

  

 この箇所によれば、どんな生きものであろうと、平等の原則がその苦しみが他の生きものの同様な苦しみと同等に、考慮されなければならない。だから、人間であれ人間以外の存在であれ、苦痛という「感覚」を持つことが、その生きものの利益を考慮するかどうかについての唯一の妥当な判断基準となる。

 

 この動物への倫理的配慮基準についての考えは、「功利主義」から着想を得ている。特に、英国の古典功利主義者ジェレミー・ベンサムからの影響は大きい。

  

 ベンサムの著作である『道徳および立法の諸原理序説』は、冒頭次の言葉から始まる。

 

 自然は人類を苦痛と快楽という、2人の主催者の支配の下に置いてきた。われわれが何をしなければならないかということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。

 

【参考:道徳および立法の諸原理序説】

  

 この文章からも分かるように、功利主義は道徳的判断を「苦痛」と「快楽」に置く。多くの人間が心地よさを感じるのであれば、それは善い行為である。一方、多くの人間が不快に思うのであれば、それは悪い行為である。

 

 この点に関して、ベンサムは快苦という基準によって権利を人間以外の動物へと拡大しようとする。彼は、自らの著作で以下のように述べる。

 

人類の過半の人々が奴隷の名の下に、例えばイングランドにおいて、能力の劣る動物と同じ種類の法律の対象になってきた時代もあったし、私の心が痛むのであるが、多くのところでまたそうである。専制君主でなければ禁止できない権利を人間以外の動物が獲得できる日がいずれくることになろう。フランス人が既に発見したことであるが、皮膚が黒いためある種の人々が気紛れな虐待をされるまま捨て置かれていいことにならない。 同様にいつの日か脚の数、皮膚の毛あるいは気高い心の弱さのために感受性ある生き物が黒人と同じ運命をいつまでも置かれていいことにならないと認められるようになるのではないか。他に何が超えられない線を画すことになるのか。理性の働きか、それとも意見を交わす能力か。しかし1人前の犬や馬の方が、生まれて1日の、1週間の、1ヶ月の乳児より比較のならない程話ができて理性もある動物である。違う事例を考えるとどうだろうか。問題はそれら動物に推論ができるということでもなければ、話ができるということでもなく、苦しむことができるかどうかである。 

  

 確かに、当時のイギリスは現代と比較しても、黒人など人種差別なども多かったし、人々の権利意識も高くはない。その時代から考えてみても、この主張は画期的だったはずである。

 

 特に、「苦しむことができるかどうか」を基準に置き、人間以外の動物の権利拡大をベンサムは主張した。この点に、シンガ-は影響を受けた。

 

 ただし人間以外の動物への倫理的配慮を考えた場合、その基準は「苦痛」だけではないはずである。「苦痛」だけでなく、彼/彼女らは「豊かな内面」を持ち、どう幸福に生きるかを理解する必要もある。

 

 この点について、犬猫などの伴侶動物に焦点を当てながら、久保田さゆりの議論を手がかりに検討を進めていく。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【第1回】人間以外の動物への倫理的配慮の基準は「苦痛」だけでは不十分である|動物への倫理的配慮基準の新たな視点【動物倫理学】

 

1.人間以外の動物への倫理的配慮基準の新たな視点

 

 沖縄県では、「一生うちの子プロジェクト」という取り組みを実施している。この取り組みの目標は、県内での捨て犬や捨て猫をゼロにすることである。

 

 その中で、特に犬猫の飼い主に①終生飼育②飼い主明示③不妊去勢④放し飼いはしない⑤完全室内飼育を呼びかけている。また、飼い犬に迷子札やマイクロチップ装着を義務づけている。

 

【参考:沖縄県 一生うちの子プロジェクト】

inuneko-okinawa.jp

 

 このような取り組みの背景のひとつに、「動物の権利運動」が考えられる。「動物の権利運動」は、人間の利益のため動物を利用し搾取する制度を批判する。

 

 例えば、大規模な集約式畜産制度、動物実験そしてサーカスや水族館などでの動物を用いた興行などの制度や慣習などを、この運動は批判する。この動きは、1970年代から始まった。

 

 この運動の先導者は、ピーター・シンガーである。彼の著書『動物の解放』の中で、人間以外の動物への倫理的配慮の基準を「苦痛」に置く。しかし彼の設定したこの基準だけでは、十分ではないと思われる。

 

 本稿の目的は、人間以外の動物の倫理的配慮の基準を「苦痛」だけではない、別の視点から捉え直すことである。その目的を達成するために、次の手順で議論する。

  

 第1に、シンガー自身の主張を整理する。彼の主張の根拠は、ベンサムの「功利主義」である。ベンサムの主張も扱うことで、シンガーの考えを明確にする。

 

 第2に、久保田さゆりの主張を参考にしながら「苦痛」だけではない、新たな基準を提示する。彼女によれば、「苦痛」というネガティブな面だけではなく、彼/彼女らの「豊かな内面」など、ポジティブな面にこそ注目するべきだと主張する。この点に関して、特に犬猫などの伴侶動物に注目する。

 

 以上の手順を踏まえていけば、「苦痛」という人間以外動物への倫理的配慮の基準は、一面的であることが示される。その先に、動物倫理への新たな視点を見出すことができるだろう。【続く】

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【第3回】伝統か差別か|オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」【動物倫理学】

 

 「前回の記事で、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」は、それぞれが「伝統」や「文化」を前提にしていることを述べた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 倫理学的観点で考えると、オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」はどう理解できるだろうか。この点について、今回は「ヒュームの法則」を手がかりに考えていく。

 

[内容]

【第1回】オランダのクリスマス 

【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」

【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

■ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

 「ヒュームの法則」とは、「『である』(事実判断)から『べきである』(価値判断)という判断は導けない」という哲学的命題である。

 

 この法則は、18世紀イギリスの哲学者デイビット・ヒュームが『人間本性論』の中で書いたことをベースに、「メタ倫理学」の中で使われるようになった。

 

【参考:人間本性論】

 

 「ヒュームの法則」について、ヒューム自身が明確に述べたわけではなく、後の哲学者たちが彼の著書『人間本性論』の中での発言を補って解釈し、「『である』と『べきである』は別問題なので、前者から後者を導き出すことはできない」という意味に読まれるようになった。この命題は「メタ倫理学」の中でしばしば引用される。

 

【参考文献:G.E.ムア『倫理学原理』 ※ヒュームの法則とムアの意図は異なる】 

 

 さて「ヒュームの法則」から、オランダの「ズワルトピート」について、次の推論形式が考えられる。

 

【推論1】

[前提] 伝統的に、黒人奴隷を「ズワルトピート」として利用してきた。(事実判断)

[結論] 黒人奴隷を「ズワルトピート」として扱うことが伝統であるという事実から、それを継続してよいし、扱うべきである。(価値判断)

 

 同様に、沖縄県の「闘鶏」についても、次の推論形式が考えられる。

 

【推論2】

[前提] 伝統的に、軍鶏を「闘鶏」として利用してきた。(事実判断)

[結論] 今後も、軍鶏を「闘鶏」として扱ってよいし、扱うべきである。(価値判断)

 

【推論1】も【推論2】も、「事実判断」を前提として「価値判断」を導く構造である。

 

 結論は、前提によって立証されなければならない。2つの事例を並べて考えると、【推論1】の前提が【推論2】を支持するようになっていない。つまり、オランダの「ズワルトピート」と沖縄県の「闘鶏」においても、「伝統」や「文化」という事実判断から「べきである」という価値判断を論理的に導くことはできない

 

 「伝統」や「文化」を理由に、「ズワルトピート」や「闘鶏」を容認する見方には、論理の飛躍があるかもしれない。そのため、【推論1】や【推論2】には、もうひとつ何か暗黙の前提があるかもしれない。

 

 ヒュームによれば、道徳は理性から導かれないが、感情に由来する。そのため、【推論1】と【推論2】の間に何らかの感情的な要素が含まれている可能性がある。

 

 「人種差別」や「種差別」だけでなく、様々な価値観の中に論理の飛躍は隠れている。「ヒュームの法則」を意識することで、「動物倫理学」はもちろん様々な倫理的問題を新しい視点で捉え直すことができるだろう。【終わり】

 

↓ヒュームの法則に関して次の文献も参考。↓

 

↓次の記事も参考.↓

pyrabital.hatenablog.com

【第2回】伝統か差別か|オランダの「クリスマス」と沖縄県の「闘鶏」【動物倫理学】

 

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写真出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

 前回の記事で、「伝統」や「文化」を前提に人間や人間以外の動物の権利を傷つけることは容認できるだろうかという問題提起を行った。この問題に関して、オランダの「クリスマス」について取り上げた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 「伝統」や「文化」を理由に、オランダの「ズワルトピート」と同様の構造が、人間以外の動物でも見られる。人間以外の動物を「娯楽」目的で不当に扱う事例は、世界各国に未だ数多く存在する。そのような事例のひとつとして、今回は沖縄県の「闘鶏」を取り上げたい。

 

[内容]

【第1回】オランダのクリスマス 

【第2回】沖縄で行われている「闘鶏」

【第3回】ヒュームの法則-「である」から「べき」は導けない

 

■沖縄で行われている「闘鶏」

 

 「闘鶏」は、軍鶏(シャモ)を飼育し、蹴爪を切って飼育管理することから「タウチー」と呼ばれる沖縄県の伝統文化である。「闘鶏」は、沖縄県各地で毎週開催されており、一部ではこの伝統文化を「タウチーオラセー」と呼んでいる。

 

 「闘鶏」の負けた軍鶏は、豚のエサにするか縛って畑や人に見られない場所に遺棄することがある。また、薬を飲ませて強制的に闘わせるため、軍鶏自体が食用に適さない状態になってしまうため、食用にすることはほとんどない。

 

 「闘鶏」に反対されると、周囲に見られないように隠れて遺棄されるのが現状である。足や羽を縛られ、エサ袋に入れられたり、誰も気付かない草むらに捨てられる。生命力が非常に強い軍鶏は、長時間苦しんで死に至る。

 

 「闘鶏」として利用できるのはオスの鶏である。大量にふ化させ、雌雄の識別ができた頃、「闘鶏」に利用できないメスは殺処分される。

 

【参考:沖縄で行われいる闘鶏の真実】

 
沖縄の行われている闘鶏の真実

 

「闘鶏」でケガを負った鶏が捨てられる事案は、県内各地で相次いでいる。この事実を受けて2019年11月に「闘鶏禁止」条例の陳情書が、糸満市議会に提出された。この陳情書を提出したのは、市内で「闘鶏」で負傷し遺棄されたとみられる鶏を保護している本田京子さんである。

 

 残念ながら不採択となったが、『琉球新報』によれば、「諦めず、みなで議論を深めていきたい」と陳情者の本田さんは述べた。

 

 記事によれば、「闘鶏を禁止すれば、闘牛やヒージャーオーラセー(闘山羊)にも議論が及び、沖縄文化の否定につながる可能性があると、みんなが恐れているのだと思う」と、本田さんは今回の不採択となった理由を分析している。

 

【参考:琉球新報(2020年9月30日)】

ryukyushimpo.jp

 

 「闘鶏」を容認し継続する住民もいる理由は、「伝統」や「文化」だけでなく、「娯楽」や「経済」など複数ある。また、沖縄県は「闘牛」や「闘山羊」など、人間の「娯楽」目的で動物を使用する伝統的な事例が多いことも事実である。

 

 日本には、古くから「闘犬」や「闘牛」などの伝統文化が、様々な地域に存在する。外国でも人間の「娯楽」のため、「伝統」を理由に、人間以外の多くの動物たちが犠牲になっていることは確かである。

 

 人間にしろ動物にしろ、「伝統」や「文化」を理由に不当に扱うことは果たして容認できるだろうか。次回、その問題について「ヒュームの法則」を参考に考察する。【続く】

 

↓参考にしたHP↓

chickenhausu.amebaownd.com

arcj.org

 

※2020年9月29日「沖縄タイムス」HPより

「闘鶏の禁止を」陳情不採択 「文化ではなく賭博だ」との指摘も 糸満市議会 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp