ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【カント道徳哲学】道徳形而上学の基礎づけ|道徳の最高原理の探求とその確立

道徳形而上学の基礎づけ [新装版]

道徳形而上学の基礎づけ [新装版]

 

 

 カーネギーの著書『人を動かす』には、「人の立場に身を置く」や「笑顔を忘れない」など様々な原則が、書かれている。この原則が、世界中の人々の心を打ち、『人を動かす』は未だにベストセラーになっている。

 

【参考:人を動かす 文庫版】

人を動かす 文庫版

人を動かす 文庫版

 

 

 この著作の中で書かれている原則はすべて「いつでも・どこでも・誰にでも」当てはまる。このような原則の最上位にある法則を『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)で、カントは探究する。

 

 『基礎づけ』の目的は、道徳の最高原理を探求しその確立をすることである。このことについて、今回は解説する。本記事で、カント道徳哲学が何を目指しているかが分かるはずである。

 

 1.『基礎づけ』の出発点は「善い意志」

 

 『基礎づけ』第1章「通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移行」は、次の文から始まる。

 

 この世界のうちで、いなそれどころかこの世界の外においてすらも、無制限に善いと見なしうるものがあれば、それはただ善い意志のみであって、それ以外には考えられない。(Ⅳ,393)

 

 「善い意志」とは、例えば「人に親切にしよう」とすることや「誠実であろう」とするわれわれの意志である。このような「善い意志」を分析し道徳の最高原理を、『基礎づけ』の中で、カントは探っていく。

 

 その結論が、「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という「道徳法則」に繋がる。

 

2.カントは道徳法則を「常識」から探る

 

 道徳の最高原理を、われわれの「常識」からカントは探っていく。『基礎づけ』によれば、「善い意志」は既にわれわれの「常識」の中に備わっている。

 

 「善い意志」は教えられるというよりも、単に啓発されるだけでよい。この概念を展開するため、カントは「義務」を取り上げる。簡単に言うと、「義務」とは「善い行為への強制力」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 「義務」は、強制力を意味する。この点から道徳を法則化するならば、「○○せよ」という分の形になるとカントは考えた。これを「命法」という。

 

 ここでいう「法」とは、文型のことである。「命法」とは、「○○せよ」という「命令形」を意味する。「命法」には、2つのパターンが考えられる。それは、「仮言命法」と「定言命法」である。

 

 「仮言命法」とは「もし××ならば、○○せよ」という、条件付きの「命令形」である。一方、「定言命法」とは無条件的に「○○せよ」という「命令形」である。

 

 「仮言命法」は、条件付きの「命法」であるため、道徳の最高原理としてふさわしくない。したがって、カントは無条件的である「定言命法」を採用する。カントによれば、「いつでも・どこでも・誰にでも」当てはまることが「定言命法」の条件である。

 

 カントは「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という道徳の最高原理である「定言命法」の方式を採った「道徳法則」を確立した。

 

■まとめ

 

 以上、今回は『人を動かす』からカントにとって道徳の最高原理である「道徳法則」について解説した。「常識」から「道徳法則」を導き出す過程で、カントは道徳の最高原理を探求してその確立を図ったことが分かったはずである。

 

 哲学書を読む際に、その思想家がどんな問題意識を持ち、何を前提としているかを考察することはとても重要である。今回の記事で、カント道徳哲学の目的を理解し、この分野に興味を持ってくれたら幸いである。【終わり】

 

↓その他参考文献↓

【カント道徳哲学】道徳形而上学の基礎づけ|「義務」は善い行為への強制力

 

 カントの「義務」という概念は、カント道徳哲学での主要概念のひとつである。この概念は、自らの主観的原理を意味する「格率」や「汝の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるようなそうした格率に従ってのみ行為せよ」(Ⅳ,421)という「定言命法」とも深い関係がある。

 

 われわれが一般的に使用する義務という語と対比させながら、カントの「義務」概念について今回は概括的に解説する。

 

1.辞書で一般的な義務を確認するー「義務を果たす」・「納税の義務

 

 まず始めに、一般的な義務という用語を確認する。辞書からの引用によれば、われわれが日常使用する場合、この語は次のようなものになる。

 

ぎ‐む【義務】(「デジタル大事泉」より)
① 人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。
倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと。
③ 法律によって人に課せられる拘束。法的義務はつねに権利に対応して存在する。

 

 ①について、「義務を果たす」という使用例が考えられる。また③については、「納税の義務」という例が思い付く。①や③の用例が一般的だろう。

 

 カント的には、②に近い意味であると考えられるが、そう単純にはいかない。われわれが想定するのとは少し違うニュアンスで、カントは「義務」という用語を使用する。

 

2.善い行為への強制力としての「義務」

 

 カントの使う「義務」という概念は、嫌でも行わなければならない「善い行為への強制力」を意味する。

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、カントが「義務」から「命法」を導き出す箇所がある。この部分を要約すると、以下の通りである。

 

 すべての「命法」は「べし」と表現される。「命法」は必ず客観的法則によって規定されなければならない。それで強制として示される。(Ⅳ,413 要約)

 

 「命法」とは、「命令形」という文の形であると考えてよい。「客観的法則」とは簡単に言うと、「いつでも・どこでも・誰にでも」当てはまる道徳的な法則を意味する。

 

 例えば「水は100℃で沸騰する」という命題のように、科学で使われる法則は「○○である」という終止形をとる。

 

 ところで、理性的であると同時に感性的存在者として、人間をカントは捉える。道徳的行為に法則があるならば、「○○せよ」という「命令形」と採るはずである。このように、カントは考える。

 

 「理性的であると同時に感性的存在者」である人間が、常に道徳的に善い行為を選択するとは、カントも思っていない。

 

 確かに、われわれは「Aという行為は善い」と分かっていながら、つい「Bという悪い行為」を選択する場合もある。 『基礎づけ』の中でも述べられているが、完全に善である神に「命法」は強制されない。「命法」は、人間の主観的な不完全さに現れる。

 

 現実的な人間観を持つカントだからこそ、「義務」に善い行為へ導く強制力があると考えた。『基礎づけ』では、この概念が「道徳法則」や「定言命法」へと展開される。

 

 以上、カントの「義務」について解説した。さらに、カントは「義務」を「完全義務」と「不完全義務」に分ける。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 さて、カント道徳哲学はそもそも何を目的としているのか。この点については、別の稿に譲る。【終わり】

 

↓その他参考文献↓

【動物倫理学】人間以外の動物は単なる「手段」ではない【カント道徳哲学】

 

 カントの文脈に即すと、人間以外の動物は単なる「手段」である。人間以外の動物は、われわれと同等な「道徳的地位」を持つとは言い難い。しかし、事態はそう単純ではない。

 

 今回、動物は「目的」でも単なる「手段」でもなく、「第3の存在」であることを提案したい。そのため、まずカントの「目的」と「手段」について簡単に整理する。

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)に、次のような命題が登場する。

 

 汝の人格やほかのあらゆる人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ。(Ⅳ,429)

 

 この命題を、H.J.ペイトンは「目的自体の方式」と呼んだ。

 

【参考:The Categorical Imperative】

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

  • 作者:Paton, H. J.
  • 発売日: 1971/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

  カントの「目的」については、以前の記事を参照されたい。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

  

 一方、『基礎づけ』によると、「手段」は「自らの結果を目的とする行為の可能性の根拠を含むに過ぎないもの」(Ⅳ,427)である。これは、ある物事を実現させるために利用されることを指す。

 

 例えば、返す当てのない借金をするために嘘の約束をする場合、嘘をつかれた側は嘘をつく側の「手段」になる。

 

 理性を持たない場合、「手段」として相対的価値しか持たない存在を「物件」とカントは呼ぶ。例えば、何か物を作るために必要なハンマーやノコギリなどの道具である。

 

 また、「物件」は「価格」を持つ。「価格」を持つものは、何か他の等価物と置き換えられる。

 

 カント的に考えると、道具などの「モノ」も人間以外の動物も同じ「物件」であると考えられる。両者共に、「カネ」という等価物に交換可能である。しかし、ホームセンターで必要な「モノ」を購入するのと、ペットショップでイヌやネコを購入するのとは、どこか違うと感じるのは私だけではないはずである。

 

 この点を、伊勢田哲治の議論で考えてみたい。彼は、イヌやネコなどの伴侶動物と家具との違いについて考察する。

 

【参考:マンガで学ぶ動物倫理】

マンガで学ぶ動物倫理

マンガで学ぶ動物倫理

 

  

 伊勢田によれば、両者の違いについて、「伴侶動物は生きているが家具は生きていない」という答えがすぐに思いつく。

 

 しかし、生きているだけであれば、ベランダの鉢植えも一緒である。鉢植えを伴侶動物と同じ意味で、家族の一員だという人は少ないだろう。単に生きているだけでなく、伴侶動物は「気持ちを持つ」または人間と同じような方法で「コミュニケーションできる」存在だと考えるならば、このことは家具や鉢植えとは大きく違うという根拠になり得る。

 

 カントの議論に戻れば、確かに、伴侶動物を含む人間以外の動物は「理性的存在者」になり得ないし、人間と同等の「道徳的地位」は持てないかもしれない。人間以外の動物は道具であり単なる「手段」であると考えた方が、カント的だろう。しかし、理性を持つ以外に、特に動物には人間との共通性やわれわれが共感できる部分が存在する。

 

 例えば、ピーター・シンガーは「快苦」に人間との共通性を、久保田さゆりは動物の「豊かな内面」に人間が道徳的に共感できる部分を見出した(※1)。 

 

【参考:動物の解放 改訂版】

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 シンガーや久保田の議論から、動物は「モノ」とは異なる存在であると考えられる。ということは、動物はわれわれ人間のような「目的」を持つ存在でもなく、道具のような「物件」つまり単なる「手段」であるとも考えにくい。

 

 つまり、浅野幸治が提示するように、動物は「目的」でも単なる「手段」でもない「第3の存在」であると考えた方がよいだろう(※2)。浅野によれば、人間と同様、他の動物も傷つき痛みや苦しみを感じる。人間以外の動物は、確かに「道徳的行為者」とは考えにくい。だからといって、単なる「物件」でもない。

 

 ここは重要な点である。人間以外の動物は、もちろん異なる存在ではあるが、人間と共通性も併せ持つ「第3の存在」である。「人間と同様傷つき痛みや苦しみを感じる」ことに加えて、人間以外の動物には上述した「豊かな内面」やローリンが言うような、食物、仲間関係、性、運動などの身体上、行動上必要なものや重要なものを動物は持つ。

 

 このことから考えてみても、人間とそれ以外の動物には、共通する部分やわれわれが道徳的に共感できる部分が存在することがわかる。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 以上の議論から、動物は「目的」でも単なる「手段」でもない存在であると考えられる。

 

 ところで、カント道徳哲学は一貫して「道徳的行為者」側から議論していると読み取れる。だから、「理性的存在者」であるわれわれ人間は、「道徳法則」に基づいて行動できる「目的それ自体」なのである。

 

 一方、人間以外の動物はカントの言う「理性」があるかどうか定かではない。「理性的存在者」でないにしろ、人間との共通部分やわれわれ人間が道徳的に共感できる部分から考えると、少なくともレーガンの言う「道徳的受益者」(moral patients)に人間以外の動物はなり得るだろう。

 

 【参考:The Case for Animal Rghits】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • 発売日: 2004/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 この議論については、次の機会に譲ることにする。【終わり】

 

(※1) 久保田さゆり,2017:動物の倫理的重みと人間の責務 —動物倫理の方法と課題— 、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2017年.

(※2) 浅野幸治,2018:動物の権利ー間接義務再考ー、『フィロソフィア・イワテ (49)』所収、岩手哲学会編、岩手哲学会、2018年.

 

↓次の書籍も参考↓

【動物倫理学】カントの「目的」概念は人間にしか適用できない【カント道徳哲学】

 

 「動物倫理学」に関する文献の中で、動物に「道徳的地位」を与える根拠として、カントの「目的」(Zweck)という概念が取り上げられることがある。

 

 ただし、カントの「目的」概念から動物の「道徳的地位」を語る際に、注意が必要である。なぜなら、カントの「目的」はわれわれ人間にしか適用できないからである。この点を念頭に置き、今回はカントの「目的」について検討する。

 

 まず、始めに一般的な目的という言葉を確認する。辞書からの引用によれば、われわれが日常使用するこの用語は次のようなものになるだろう。

 

もく‐てき【目的】

実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。(「デジタル大辞泉」)

 

 例えば、「目的に適う」とか「当初の目的」などがその使用例だろう。一方、カントが使用する「目的」という用語はわれわれが使用するものとは異なる。

 

 このことを示すため、 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)第2章「通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移行」の一節を引用する。

 

 意志はある法則の表象に適合して自己自身を行為へと規定する能力と考えられる。そしてこのような能力は、ただ理性的存在者のうちに見出させることができる。ところで、意志にとってその自己規定の客観的根拠として役立つものが目的であり、そしてこの目的は、それがたんなる理性によって与えられる場合は、あらゆる理性的存在者にひとしく妥当するはずである。(Ⅳ,428)

 

 この引用文のポイントは、次の2点である。

・「目的」とは、「自己規定の客観的根拠として役立つもの」である。

・カントの「目的」は、「あらゆる理性的存在者にひとしく妥当する」。

 

 「自己規定の客観的根拠」は、ここでは「道徳法則」である。道徳的判断を行う場合の基準となる「汝の意志の格率が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が同時に意欲することができるような、そうした格率に従って行為せよ」(Ⅳ,421)という「定言命法」である。この「自己規定の客観的根拠」を支持する概念として、「目的」は存在する。

 

 カント道徳哲学では、道徳的判断の主体は一貫して「理性的存在者」である。例えば、地球外生命体などもカントは想定しているが、少なくとも、地球上では人間のみをカントは「理性的存在者」と見なしている。

 

 このことから考えると、カントの「目的」は「あらゆる理性的存在者」すなわち、われわれ人間以外あり得ない。

 

 「定言命法」の全般的研究を行った人物に、ペイトンがいる。『基礎づけ』の中に出てくる「汝の人格やほかの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」(Ⅳ,429)を「目的自体の法式」として、彼は理解する。

 

【参考:The Categorical Imperative】

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy

  • 作者:Paton, H. J.
  • 発売日: 1971/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

  彼の解説によれば、「目的自体の法式」は理性的存在者一般を包括すべきである。われわれの知る唯一の「理性的存在者」は、人間である。われわれは、人間を「理性的存在者」として尊重するよう命じられる。

 

 彼のカント解釈から考えてみても、人間以外の動物は「手段」である。カントの文脈に即して考えると、人間以外の動物はわれわれと同等に「道徳的地位」を持つとは言い難い。

 

 動物虐待や無意味な動物実験について考えるならば、ペイトンの言う「目的自体の法式」を想起し、人間以外の動物も「手段」としてではなく、同時に「目的」として扱うべきであると主張したくなるのも無理はない。

 

 しかし、カントの文脈に即して考えるならば、この主張自体誤りである。なぜなら人間のみが「目的」であり、人間以外の動物はあくまで、「手段」でしかないからである。

 

 だからといって、動物虐待や無意味な動物実験などで、動物を単に「手段」として扱ってよいことを私は肯定している訳ではない。「目的」というカントの概念を援用するのであれば、彼の考えを正しく理解しそれに基づく解釈で議論すべきである。

 

 哲学用語は、日常われわれが使用している用語とは違う場合が多い。このことが、混乱や誤解を招くことはよくある。

 

 また「応用倫理学」を学習していると伝統的な概念の誤用や、誤った解釈を目にすることがある。正しい見解や解釈に基づいて、「動物倫理学」を含む「応用倫理学」などの学習を、継続していかなければならない。【終わり】

 

【参考文献】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
Amazon

【動物倫理学】高等学校教科書『倫理』| 人間と人間以外の動物の区別はあいまい

  

 人間とは、何か。

 

 高等学校教科書『倫理』は、この問いから始まる。

 

 ソクラテスやカントなど様々な哲学者の思想から学ぶ前にひとつの手がかりとして、高等学校教科書『倫理』は、人間と動物との違いから出発する。

 

 まず高等学校教科書『倫理』の内容を引用する。

 

 私たちは他の生き物と同様に生命を与えられて、今、ここに生きている。これからの人生をどのように生きれば、意味のあるものになるだろうか。そもそも、人間とはいったい何だろうか。(p.6)

 

 このように人間として「生きる意味」や、そもそも「人間とは何か」考える出発点として、動物との違いを高等学校教科書『倫理』は明確化しようとする。例えば、「知恵こそ人間の特質」であると、高等学校教科書『倫理』は主張する。

 

 しかし「知恵」のある動物は、人間以外にも存在することが、様々な研究や観察から分かってきた。このような一方的な主張が、むしろ人間と動物の区別をあいまいにする。

 

 さて高等学校教科書『倫理』は、人間を以下の6つに定義する。

 

①ホモ・サピエンス(知恵のある人)

②ホモ・ファーベル(工作する人)

③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)

⑤人間は自然本性的にポリス的動物である

⑥ホモ・レリギオースス(信じる人)

 

 確かに、⑥番は人間のみの特性であると思われる。しかし①から⑤は人間以外の動物にも、備わっている。以下、順に検討する。

 

①ホモ・サピエンス(知恵のある人)

 

 このように主張した人物に、植物学者リンネ(瑞 1707ー1778) がいる。

 

【参考:Carl von Linné

f:id:chine-mori:20210905163259p:plain

出典: フリー百科事典 ウィキペディアWikipedia

 

 彼は生物を分類する上で、人類にこのような学名を与えた。彼は、人間の優位性を「知恵」に見た。

 

 高等学校教科書『倫理』も、次のように述べる。

 

 人間は、自分たちには知恵があることを自覚してきた。近代の生物学では、種としてのヒト(人間)をホモ・サピエンスという学名で呼んでいる。これはラテン語で「知恵のある人」という意味であり、人間と他の生き物との違いをやはり知恵の有無で区別している。(p.7)

 

 しかし、前述したように、「知恵」のある動物は人間以外にも存在する。次の動画を、見ていただきたい。

 

【参考:ジュースを買うフサオマキザル


ジュースを買うフサオマキザル

 

 このサルは、東北サファリパークのサル劇場に出演しているフサオマキザルの「アキちゃん」である。確かに、生まれつきこのような行動をとったとは考えにくい。しかし、ジュースを買う人間の行動を観察し学習して、自らジュースを買って飲んでいることは推測できる。

 

 リンネが主張するように、人間は「知恵のある人」であると定義することは正しいとは言い難いし、高等学校教科書『倫理』の内容も説得力を持たない。

 

②ホモ・ファーベル(工作する人)

 

 このように主張した人物に、哲学者ベルクソン(仏 1859ー1941) がいる。

 

【参考:Henri-Louis Bergson 】

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出典: フリー百科事典 ウィキペディアWikipedia

  道具を作り操るという人間の特質に、彼は注目した。

 

 しかし、道具を作り操るという行為は人間以外の様々な動物に見られることは分かっている。例えば、南太平洋に棲息するニューカレドニアカラスである。

 

【参考:カラスはやはり賢い 道具を使うだけでなく自分で作る】


カラスはやはり賢い 道具を使うだけでなく自分で作る

 

 それ以外にも、ラッコは貝類やウニ類を胸部や腹部の上に石を乗せ、それに叩きつけて割り中身だけを食べる。石を道具として操る能力が、ラッコにはある。また、オーストラリアの沖合で目撃されたシロクラベラは、貝を岩に打ちつけて殻を割り中身を食べる習性がある。

 

【参考:National Geographic(2011年7月14日付)】

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

 ベルクソンが主張するように、人間は「工作する人」であると定義することは現在の研究結果からかけ離れている。

 

 この主張を援用する高等学校教科書『倫理』の内容も、正確な記述とは言えない。

 

③ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)

 

 このように人間を定義した人物は、歴史家ホイジンガ(蘭 1872-1945)である。

 

【参考:Johan Huizinga】

 

f:id:chine-mori:20210905164254p:plain

出典:フリー百科事典 ウィキペディアWikipedia

 人間の特性を、必要から離れて「遊戯」を行う点に見る。

 

 「遊戯」つまり「遊ぶ」という行為は、何も人間だけではないことは容易に観察できる。例えば、犬などは仲間同士で遊んだりじゃれ合ったりしている光景は身の回りでよく目にする。

 

【参考:はじめてドッグランで他の犬と遊ぶ柴犬どんぐり】


はじめてドッグランで他の犬と遊ぶ柴犬どんぐり Shiba Inu Donguri for the first time to play with other dogs in the dog run

  

 ベルクソンが主張するように、人間を「遊ぶ人」と定義することは、身近な事例からも無理がある。

 

 同様な主張を行う高等学校教科書『倫理』も、現実的ではない。

 

④ホモ・シンボリクス(象徴を用いる人)

 

 他者と交わるとき、人間は言語や芸術を用いる。

 

 哲学者カッシーラー(独 1874- 1945)は、同様の意味で「アニマル・シンボリクス」という言葉を用いた。

 

【参考:Ernst Cassirer】

f:id:chine-mori:20210905164653p:plain

出典: フリー百科事典 ウィキペディアWikipedia

 

 しかし、言語を用いるのは人間だけでないことは最近の研究結果から明らかである。インターナショナル・キャットケアの最高責任者クレア・ベサントによれば、大人のネコは人間の言葉を200語から300語を理解する。

 

 また彼らは特に、尻尾で自らの感情を表現する。

 

【参考:ネコ学入門】

ネコ学入門: 猫言語・幼猫体験・尿スプレー

ネコ学入門: 猫言語・幼猫体験・尿スプレー

 

 

 人間以外の動物が芸術的活動を行えるかは定かではない。それにしても、人間のように言葉を発し文字を書けることだけが言語能力とは限らない。

 

 「象徴を用いる」ことから考えると、例えばネコならば、気心が知れている仲間のネコと瞬きであいさつし鼻と鼻を近づけて互いを確認し合う。

 

 また、ミツバチはいわゆる「8の字ダンス」で、仲間に蜜源の場所を知らせる。

 

【参考:ニホンミツバチの8の字ダンス】

www.youtube.com

 

 このように考えるならば、様々な方法で、人間以外の動物もコミュニケーションをとっていると考えた方がよいだろう。

 

 この事実から考えると、カッシーラーなどが考えるように人間だけが「象徴」を用いることも説得力を持たない。

 

 他と同様、この考えも人間の定義として不十分である。

 

⑤人間は自然本性的にポリス的動物である

  

 この言葉は、政治学』第1巻第1章でのアリストテレスによる有名な定義である。

 

【参考:Aristotelēs】

f:id:chine-mori:20210905165100p:plain

出典: フリー百科事典 ウィキペディアWikipedia

 

 「ポリス」とはすなわち「社会」を意味する。

 

 人間は、社会集団の中で生活する動物である。「社会」の中には一定のルールや秩序があり、個々人が集団の中でそれぞれ役割を果たす。この特質が、人間の中にある。

 

 一方、アリストテレスには動物は、無秩序で一定の役割を果たさない自由奔放な存在に映ったのだろう。

 

 しかし、これもよく考えると、アリストテレスの主張は間違いだと気づく。

 

 例えば、ハチやアリである。ハチやアリは、「女王バチ」や「女王アリ」を中心とした「社会」を形成する。その社会の中で、「働きバチ」や「働きアリ」が獲物を捕ったり、子育てをしたりする役割をそれぞれ果たしながら、ある一定の秩序を保って生活している。

 

  このことから考えると、「自然本性的にポリス的動物である」という言葉は、単に人間だけを表すとは限らない。他の生物も、その集団の中で一種の「社会性」を保って生活しているからである。

 

 「社会性」を持つことが人間の特質であるという高等学校教科書『倫理』の内容は、必要条件に当てはまらない。

 

まとめ

 

 以上のように考えると、人間と動物の区別はむしろ明確化できなくなる。

 

 確かに、動物とはいってもすべて一括りで考えることはできない。程度の問題はある。しかし少なくとも、高等学校教科書『倫理』が発した「人間とは何か」という問いへの答えは余計、あいまいさを増す。

 

 芸術や宗教など人間固有の活動も確かにあるはずである。しかし、人間と動物に共通する部分の方が多いように思われる。

 

 したがって、「○○だから人間は動物よりも優位である」という主張の多くは、当てはまらないだろう。

 

 物事を批判的に見ることを哲学は要求する。教科書という「権威」を疑い、「常識」を疑い、自分自身で物事を深く考えることができるのあれば、動物と人間との共生の道が開かれるかもしれない。【終わり】

 

↓その他参考文献↓

【動物倫理学】道徳と、人間と動物のきずな|「苦痛」以外の動物の倫理的考慮の基準

 

 ピーター・シンガーによれば、どんな生きものであろうと、平等の原則がその苦しみが他の生きものと同様の苦しみと同等に考慮されなければならない。

 

【参考:動物の解放】

 

 人間であれ人間以外の動物であれ、苦痛という「感覚」を持つことが、その生きものの利益を考慮するかどうかについての唯一の妥当な判断基準となる。(注1)

 

 しかし、人間以外の動物を倫理的考慮の対象にする場合、その基準を「苦痛」だけに求めることは十分ではない。

 

 例えば、野生動物を「野生動物として」、家畜動物を「家畜動物として」そして伴侶動物を「伴侶動物として」われわれは、理解しなければならない。ピーター・シンガーをはじめ、動物倫理学を扱う多くの研究者たちはその対象を一括りに扱っている。

 

 一方、『コンパニオン・アニマルー人と動物のきずなを求めて』所収、バーナード・E・ローリンの論文「道徳、人間と動物のきずな」は対象を伴侶動物に絞る。彼は、人間以外の動物を倫理的考慮の対象にする基準を「苦痛」以外に置く。

 

 彼によれば、人間と人間以外の動物の間に見逃すことができない異なる重要な関係がある。人間にとって、伴侶動物は確かに道具としての価値を持つ。

 

 一方、動物には生命を持った感覚のある「道徳的存在」として、本来的価値がある。これら動物は、人間にとって重要であるかとは無関係である。動物自身は生命を持つ存在である。効用より、遥かに重みのある「道徳という絆」によって、われわれは彼らと結ばれている。(注2)

 

 

 ここで彼が言いたいことは、われわれと伴侶動物との関係のあり方である。彼はカントの「目的」という概念を持ちだして、伴侶動物を愛玩目的の「手段」として利用することは、間違っていることを指摘する。愛玩動物の役割を超えて、伴侶動物にも生命を持った感覚のある「道徳的存在」としての本来的価値を彼は認める。

 

 もしも人間以外の動物が道徳的配慮の対象であるならば、道徳的に正当な理由がない限り、どんなことがあってもわれわれは人間以外の動物を殺してはならないし彼/彼女らの本性を侵害してはならない。

 

 また、人間と人間以外の動物との相違点とされてきたものの中で、道徳的観点から妥当性のあるものはまったくないと彼は主張する。人間にとって、道徳的に妥当性があり重要であるとわれわれが考える特徴が、人間以外の動物にも備わっている。

 

 それは次の2点である。(注3)

①生きていること
②食物、仲間関係、性、運動、痛みの回避など自身にとって身体上、行動上必要なものや重要なものを持っていること

 

 

 確かに、①も②も人間も人間以外の動物も道徳的に妥当性があり重要である特徴である。この点から考えると、苦痛という「感覚」が、生きものの利益を考慮するかどうかについて唯一の妥当な判断基準である、というシンガーの主張は揺らぐ。

 

 以上の点を踏まえて、彼は動物への栄養上や生物上の要求について、われわれは理解が欠けていることを彼は指摘する。その結果、望まれない動物が増えたり野犬の群れなどが出現する。(注4)

 

 本論文にあるように、例えば人間以外の動物は「痛みを感じない」ことや「理性を持たない」という主張など、多くの説得力のない議論や動物への無理解が彼/彼女らを「手段」として扱うことに繋がった。

 

 長年共に生活を重ねると、単なる「癒やし」を与えてくれる存在を超えて、伴侶動物は「かけがえのない存在」となる。生命を持つ感覚ある「道徳的存在」としての本来的価値をお互い認め合うならば、人間と人間以外の動物という関係を超えた「特別な間柄」を、われわれは構築できるようになるだろう。【終わり】

 

(注1)Singer,2009,邦頁 30 参照.

(注2) Rollin,1981,邦頁 182 参照.

(注3) Rollin,1981,邦頁 188 参照.

(注3) Rollin,1981,邦頁 195 参照.

 

↓その他参考文献↓

 

【抄訳と訳注㉑】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.184-pp.185)

 

 One final point, one that plumbs the depths of Kant’s arbitrariness, merits our attention before moving on. As remarked earlier, Kant offers what he regards as alternative, equivalent formulations of the categorical imperative. Any act that passes the best of Universal Law also passes the test of End in Itself, and vice versa;and any act that fails the one also fails the other.

 

[訳]

 カントの恣意性の深みを掘り下げる、最後のあるポイントは、次に進む前にわれわれが注意を払う価値はある。先に述べたように、代替物として見なすもの、つまり定言命法の法式と同等のものをカントは提示する。最高の普遍的法則に合格するどんな行為も目的それ自体の試験に合格し、逆もまた同様であり、つまり一方に失敗した行為は他方にも失敗する。

 

[訳注]

 カントの「恣意性」(arbitrariness)について、レ-ガンは更に追求する。「定言命法の法式」(formulations of the categorical imperative)と同等のものとして、カントは「目的それ自体」(End in Itself)の法式を提示する。すなわち、「最高の普遍的法則」(the best of Universal Law)としての「定言命法」に合格するどんな行為も、「目的それ自体」の試験に合格する。その逆もまた同様である。

 

This can be shown to be false. Suppose I am considering whether to be a vegetarian, not out of considerations that relate to my health but because I think that the intensive rearing of farm animals is wrong and is wrong because of how the animals are treated. If I make use of the Formula of Universal Law, there is no reason why I cannot universalize the relevant subjective maxim: no one is to support the intensive rearing of farm animals by purchasing meat from these sources. But now suppose I consult the Formula of End in Itself. That formula instructs me always to treat humanity, either in my own person or in the person of any other, always as an end, never as a means merely.

 

[訳]

 このことは誤りであることが証明される。私がベジタリアンになるかどうかを考えていると仮定しよう。自身の健康に関連する考慮事項からではなく、家畜の集中的な飼育は間違っており、家畜の扱い方が間違っていると私は考えるからである。もしも普遍的法則の法式を利用するならば、関連する主観的格率を普遍化できない理由はない。これら供給源から肉を購入することによって家畜の集中飼育を誰も支持してはならない。しかし今、目的それ自体の法式を参考にしたとしよう。自分自身の人格であれ他人の人格であれ、この法式は常に自分自身を人間性として、つまり決して単なる手段としてではなく、常に目的として扱うよう命じる。

 

[訳注]

 このカントの考えは誤りである、とレーガンは主張する。その際、「ベジタリアンになる」(be a vegetarian)かどうかについてレーガンは仮定する。「普遍的法則の法式」を利用するならば、家畜の集中飼育は間違っているので「ベジタリアンになる」という「主観的格率」(subjective maxim)は「普遍化」(universalize)できる。一方、「目的それ自体の法式」を採用するならば、この法式は常に「人間性」(humanity)として自他の「人格」(person)を扱うことになる。

 

But how am I to assess the morality of my moral objections to factory farming by references to that formulation of the categorical imperative? Since the beings I am concerned about are not human beings, that formula provides me with no possible guidance. But if it provides me with no possible guidance, then the two formula- that of Universal Law and End in Itself- are not equivalent after all. For though my subjective maxim about not supporting the intensive rearing of animals passes the test of Universal Law, the morality of supporting the intensive rearing of animals cannot even be tested by, let alone pass, the Formula of the End in Itself. The moral arbitrariness characterizing Kant’s position thus makes its presence felt at the most fundamental level – at the level of his interpretation of the fundamental principle of morality.

 

[訳]

 しかしこの定言命法の法式を参考にして工場畜産への私の道徳的反対をどのように評価するのか。関心を持つ存在は人間ではないので、その法式は私に可能な指針を与えない。しかしそれが可能な指針を私に与えないのならば、2つの法式、つまり普遍的法則の法式と目的それ自体の法式は結局、等価ではない。というのも動物の集中飼育を支持しないことについて自分の主観的格率は普遍的法則のテストに合格するけれども、動物の集中的飼育を支持する道徳性は、目的それ自体の法式によって合格することはいうまでもなく、テストすることさえできない。このようにカントの立場を特徴づける道徳的恣意性はその存在を最も基本的な水準、つまり道徳の基本原理の解釈の水準でその存在感を示す。

 

[訳注]

 「定言命法の法式」に基づく工場畜産への道徳的反対に関して、レーガンによれば、「普遍的法則の法式」と「目的それ自体の法式」は「等価」(equivalent)ではない。人間以外の動物の集中飼育を支持しないことについて、「主観的格率」は「普遍的法則のテスト」(the test of Universal Law)に合格はするが、人間以外の動物の集中飼育を支持する「道徳性」(the morality)はテストすらできない。この点にレーガンは、カントの特徴的立場である「道徳的恣意性」(The moral arbitrariness)を見る。

 

Only undefended prejudice could lead Kant to suppose that an expansive formulation of the fundamental principle of morality (that of Universal Law), one that allows us to test directly our maxims with regard to how animals may be treated, is equivalent to a restrictive formulation (that of End in Itself), one that has no direct bearing on questions relating to how animals may be treated. To limit the direct scope of the supreme principle of morality to how humans are to be treated arbitrarily favors these individuals as it arbitrarily excludes others.

 

[訳]

 弁護されない偏見だけが、カントに、道徳の根本原理の拡大解釈(普遍的法則の方式)、すなわち、動物がどのように扱われるかに関してわれわれの格率を直接的にテストすることができる解釈と、制限的解釈(目的それ自体の方式)、すなわち、動物がどのように扱われるかという問題には直接関係がない解釈とが同等であると考えさせられる。道徳の最高原理の直接的な範囲を、人間がどのように扱われるべきかということに限定することは、恣意的に他者を排除すると同時に恣意的にこれら個人を優遇する。

 

[訳注]

 「普遍的法則の法式」と「目的それ自体の法式」は「等価」であるという見方を、レーガンは「弁護されない偏見」(undefended prejudice)と呼ぶ。レーガンの立場は、あくまで、人間以外の動物がどう扱われるべきかに関する「われわれの格率」と、そもそも人間以外の動物がどう扱われているかという問題は別である。「道徳の最高原理」を人間がどう扱われるべきかということに限定することは、人間以外の動物を含む「他者」(others)を恣意的に排除すると同時に、「理性的存在者」としての「個人」を特別視することになる。【終わり】

 

カントの「目的それ自体」の概念について以下の文献も参照

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

【抄訳と訳注⑰】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.182-pp.183)

 

 That Kant’s assumptions are ill founded may perhaps be shown more clearly by considering the moral status of human moral patients, given his assumptions.By definition human moral patients are not moral agents and so, on Kant’s principles, are not rational beings.Because they are not rational beings, they can have no value in their own right and must, instead, be viewed as things, having value “merely as a means to an end”.It follows from this that we can do no direct moral wrong to any human moral patient. All that can be said about our moral dealings with such human is that our duties involving them are indirect duties to rational beings.

 

[訳]

 カントの仮定が根拠のないことは、カントの仮定に基づいて、人間の道徳的受益者の道徳的地位を考えることで、より明確に示すことができる。人間の道徳的受益者は、定義上、道徳的主体ではなく、カントの原則によれば、理性的存在者ではない。彼らは理性的存在者ではないので、その権利自体に価値はなく、代わりに物件、すなわち「単なる目的のための手段」として見なされなければならない。このことから、われわれは人間の道徳的受益者に直接的に道徳的な不正を犯すことができないことが分かる。そのような人間とわれわれとの道徳的な取り扱いについて言えることは、彼らに関するわれわれの義務すべては理性的存在者への間接的な義務であるということである。

 

[訳注]

 人間の道徳的受益者への道徳的地位を考えることによって、カントの仮定に根拠はないことは明らかである。カントの原則によれば、人間の道徳的受益者は理性的存在者ではない。道徳的受益者の権利自体に価値はない。代わりに、彼/彼女たちは「物件」(things)すなわち「単なる目的のための手段」(merely as a means to an end)として見なされなければならない。一方、道徳的受益者に直接的に道徳的不正を犯すことができない理由は、道徳的受益者への「義務」(duties)すべては、理性的存在者への「間接的な義務」(indirect duties)であるからである。

 

Thus, I do no moral wrong to a child if I torture her for hours on end. The moral grounds for objecting to what I do must be looked for elsewhere -namely, in the effect doing this will have on my character, causing me, so Kant’s view suppose, to become “hard” in my dealings with human moral agents.But suppose I torture only one human moral patient in my life.Though I am squeamish at first, suppose I steel myself against my usual sensitivities and use all my imagination to visit horror upon the child.And suppose that, having satisfied myself of what I had supposed might be true-namely, that I have no taste for torture-I release my captive and never again indulge in torturing any human being again. The habit of cruelty finds no permanent home in my breast.

 

[訳]

 したがって、何時間折檻しても私は子どもに道徳的な不正を犯していることにならない。私の行為に異議を唱える道徳的根拠は、別のところ-つまり、このような行為が私の性格に影響を与え、カントの考えでは、人間の道徳的主体と私が接する際に「困難」になってしまうということである。しかし、私が自分の人生の中で1人だけ道徳的受益者を折檻すると仮定する。最初気分が悪くなるけれども、普段の感覚に非情になり、子どもに恐怖をもたらすため想像力すべてを駆使すると仮定する。そして、自分が真実かもしれないと思っていたこと、つまり私は折檻の趣味がないこと-を納得した上で、私は人質を解放し、2度と人間を折檻することはしないと仮定する。自分の胸には残酷な習慣は永久に残ることはない。

 

[訳注]

 この議論の中に出てくる「道徳的受益者」(moral patient)とは、例えば「子ども」が想定されている。カントの立場で考えると、何時間折檻しても、子どもに道徳的不正を犯していることにはならない。この行為を禁止すべき道徳的根拠は、われわれの性格に悪影響を与えるという点である。「道徳的受益者」は理性的存在者ではなく、単なる「物件」なので、2度と折檻しないと誓うならば、自分の胸の中に「残酷な習慣」(the habit of cruelty )は永久に残ることはない。

 

Are we to say that therefore I did nothing wrong to my one and only torture victim? However implausible this must seem, Kant’s position does imply that the correct answer is affirmative.

 

[訳]

 このように、ただ1人の犠牲者にも何も悪いことをしてはいないとわれわれは言えるのか。しかしながら、このようなことはあり得ないと思われるが、カントの立場からすると、正確な答えは肯定的であることを示唆する。

 

[訳注]

 以上の事例を「あり得ない」(implausible)とレーガンは判断する一方、カントは「肯定的」(affirmative)に捉える。【続く】

 

上記の議論は「動物の権利」に関係するとも考えられる。以下の文献も参考。

 

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【抄訳と訳注⑯】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.181-pp.182)

 

 To defend the internal consistency of Kant’s position, given his assumptions, is one thing. To defend its adequacy is quite another. That position cannot be any more adequate than the assumption that animals are things and, relatively, that they have value “merely as means to an end “, that end being man.

 

[訳]

 彼の仮定を踏まえると、カントの立場の内部の一貫性を擁護することはひとつの事項である。その妥当性を擁護することとはまったく別である。その立場は、動物は物件であり、相対的に、動物は「目的である人間への単なる手段として」価値があるという仮定以上に適切なものであり得ない。

 

[訳注]

 「カントの立場の内部の一貫性を擁護すること」(To defend the internal consistency of Kant’s position)と「その妥当性を擁護すること」(To defend its adequacy)は、別の問題である。カントの立場では、人間以外の動物は単なる「物件」(things)である。そして彼/彼女たちは、「目的である人間への単なる手段として」相対的な価値以上の存在ではあり得ない。

 

 The assumption that animals are things is false at best. For reasons given in chapter 3, it is reasonable to view animals as having a welfare that is not logically tied to their use by humans to promote human ends. Moreover, while it is admittedly true that animals lack the kind of autonomy required for moral agency, it is false that they lack autonomy in any sense. For animals not only have preference, they can also act, on their own, to satisfy these preferences.

 

[訳] 

 動物は物件であるという仮定はせいぜい間違っている。第3章で述べた理由によって、人間の目的を促進するため人間が使用することは論理的に結びつかない福祉があることと動物を見なすことは妥当である。さらに、動物が道徳的主体に必要な種類の自律を欠いていることは確かに事実である一方、動物がどんな意味でも自律を欠いていることは誤りである。というのも動物は選好を持っているだけでなく、これら選好を満たすために自分たちで行動できるからである。

 

[訳注] 

 人間以外の動物を「物件」であると見なすことは、間違っている。「人間の目的」(human ends)を促進するため、彼/彼女たちをわれわれ人間とは論理的には結びつかない「福祉」(a welfare)が存在する。どんな意味においても、彼/彼女たちが「自律」(autonomy)を欠いていると考えることは誤りである。なぜなら、彼/彼女たちは「選好」(preference)を持つだけでなく、それを満たすため自ら行動できるからである。

 

To view them, as Kant does, as -like art supplies- things, and thus as having, as art supplies have, value only relative to human desires and purposes, is radically to distort what animals are. Even were we to concede, contrary to Broadie and Pybus, that Kant’s position is consistent, it does not follow that we should view it as adequate.

 

[訳] 

 カントのように、動物を「作品のようなもの」と見なし、作品のように人間の欲望や目的への単に相対的な価値しか持たないと見なすことは、動物の存在を根本的に歪めることになる。ブローディーやパイバスとは対照的に、カントの立場が一貫していることを認めたとしても、われわれはそれを妥当であると見なすべきであるということではない。

 

[訳注]

 人間以外の動物を「人間の欲望や目的への単に相対的な価値」(value only relative to human desires and purposes)しか持たないと見なすことは、彼/彼女たちの存在を根本的に歪めることに繋がる。人間以外の動物を「人間の欲望や目的への単に相対的な価値」しか持たないとカントが一貫して認めたとしても、われわれはそれを認めるべきではない。【続く】

 

カントの「手段」と「目的」について以下の文献を参照.。

 

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【抄訳と訳注⑮】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.181-pp.182)

 

An example might make this clearer. An angry child who breaks his art supplies does not destroy something that exists as an end in itself; he destroys something that has value as a means.Now, the supplies, which have value merely as a means, have been treated in a way that is “unfitting to the nature as things to be used for painting. But no moral wrong is thereby done to them; the child violates no direct duty owed to the supplies.

 

[訳] 

 事例をひとつ挙げるとより明確になるかもしれない。自らの作品を壊し怒っている子どもは目的それ自体として存在するものを破壊しない。彼は手段として価値あるものを破壊する。さて、単に手段として価値あるだけの作品は絵画に使用されるものとして「本性にふさわしくない」よう扱われている。しかしそれによって道徳的過失が彼らに生じたわけではない。その子どもは作品に起因する直接的な義務に違反しない。

 

[訳注]

 「自らの作品を壊し怒っている子ども」(An angry child who breaks his art)を、レーガンは例に挙げる。「自らの作品を壊し怒っている子ども」は、単に「手段として価値あるものを破壊」しているに過ぎない。「手段として価値あるもの」とは、「絵画」(painting)として使用されるものという意味である。「絵画」自体は、カントの言う「目的それ自体」(an end in itself)として存在しているわけではないので、その子どもに道徳的過失は生じない。

 

 It does not follow, however, that we either would or must view his conduct as morally indifferent, or that we cannot follow Kant’s lead in attempting to explain why his behavior should be nipped in the bud. After all, one ought not to let one’s emotions get the best of one, not only because this will lead one to do some foolish things in a fit of rage (e.g., destroy art supplies one will later regret not having) but also because a repetition of such behavior could in time lead one to lash out in morally offensive ways towards those individuals towards whom one does have direct duties.Needless to destroy something that has value merely as a means arguably is to treat that thing in a way that is “unfitting to its nature; but the moral grounds for objections to such destructions could be viewed as distinctively Kantian in flavor. Despite objections to the contrary, therefore, Kant can have a consistent position regarding the maltreatment of things having value merely as a means.

 

[訳]

 しかしながら、彼の行為を道徳的に無関心であると見なしまたは見なさなければならないと考えたり、彼の行為の芽を摘むべき理由を説明しようとするとき、カントの指示にわれわれは従うことはできない。単に怒りに満ちた中で愚かなことをするようになるだけでなく(例えば、後で後悔するような作品を破壊すること)、そのような行動の繰り返しがやがて直接的な義務を負う個人に道徳的に不快な方法で打ちのめす可能性があるので、結局、人は自分の感情に負けてはいけない。手段として価値あるものを壊すことは言うまでもなく、「その本性に合わない」扱いをすることである。このような破壊に反対する道徳的根拠は、明らかにカント主義的な特徴であると見なすことができる。したがって、反対意見にも関わらず、カントは単なる手段として価値ある物件の不当な扱いに一貫した立場をとることができる。

 

[訳注]

 「自らの作品を壊し怒っている子ども」の「自らの作品を壊す」という「行為の芽を摘む」(be nipped in the bud)べき理由を説明するとき、カントの主張に従うことはできない。そのような行動を繰り返すと、道徳的に不快な方法で直接的に義務を負う個人をその子どもが打ちのめす可能性が生じるからである。手段として価値あるものを壊すことはいうまでもなく、「その本性に合わない」扱いをすることである。このように、カントは単なる手段として価値ある物件の不当な扱いに一貫した立場をとる。

 

This much granted, it is a small step, given his view of animals, to see that his position regarding their maltreatment also is consistent with general principles of his ethical theory. This is because animals are, in Kant’s view as Broadie and Pybus note, things and have only relative value.As things, then, we maltreat animals when we treat them in ways that reduce their value as means for those individuals for whom, in Kant’s view, they exist in the first place-human beings.

 

[訳]

 ここまではいいとして、彼の動物観を考えると、動物虐待に関する立場もその倫理的理論の一般原則と一致することは小さな一歩である。というのも、ブローディーやパイバスが指摘するカントの見解として、動物は物件であり「単に相対的な価値」しかないからである。そのとき物件として、カントの見解では、一義的に存在する個人つまり人間のための手段としてそれらの価値を減少させる方法で扱うとき、われわれは動物を不当に扱う。

 

[訳注]

 カントの動物観を考えると、動物虐待に関する立場もその倫理的な一般原則と一致する。ブローディーやパイバスによると、動物は物件であり「単に相対的な価値」(only relative value)でしかない。一方、カントの見解では、「人間のための手段として」(as means for those individuals)人間以外の動物を彼/彼女の価値を減少させるように扱うとき、われわれは彼/彼女たちを不当に扱うことになる。

 

To treat animals in ways that diminish their utility for us is indeed to treat them in ways unfitting to their nature, given Kant’s view, since their nature is to exist as means to our purpose. But the grounds Kant has, and those he can consistently have, for objecting to the maltreatment of animals, are not that acting in this way is contrary to any direct duty we have to them; rather, as in the analogous case regarding the gratuitous destruction of the art supplies, the grounds he has, and can consistently have, lie in the (supposed) effects this will have on our character and thus, in this view, on how in time the habit of treating animals cruelly will lead us to fail to fulfill our direct duties to those to whom we have such duties-namely, ourselves and other human beings.

 

[訳]

 カントの見解では、動物の本性は人間の目的のために手段として存在することなので、われわれにとっての有用性を低下させる扱いをすることは、まさに動物を「本性にふさわしくない」扱いをすることになる。しかしカントが持つ、そして彼が一貫して持っている動物虐待に反対する根拠は、このように行動することが、われわれが動物に持っている直接的な義務に反するということではない。むしろ、作品の不当な破壊に関する類似の場合と同様に、カントが持ち、一貫して持ち得る根拠はこの行為がわれわれの人格に与える(と思われる)影響にあり、したがって、この見解では、動物を残酷に扱う習慣が、やがて、われわれがそのような義務を負っている人々、すなわち、われわれ自身や他の人間への直接的な義務を果たせなくなることにある。

 

[訳注]

 カントの見解では、あくまで人間以外の動物は「人間の目的のための手段として」(as means to our purpose)存在するに過ぎない。われわれにとって有用性を低下させるように人間以外の動物を扱うことは、彼/彼女たちを「本性にふさわしくない」扱いをすることである。作品の不当な破壊に関する場合と同様、カントが一貫して持つ根拠は、人間以外の動物を不当に扱う行為がわれわれの人格に悪影響を与えることである。カントの見解では、動物を不当に扱う習慣が、われわれ自身や他の人間への直接的な義務を果たせなくなることに繋がる。【続く】

 

カントの「目的」と「手段」に関して次の文献を参照。

 

カントの「直接義務」や「間接義務」に関することは以下の文献を参考。

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