ネコと倫理学

カント道徳哲学/動物倫理学/教育倫理学/ボランティアの倫理学/ネコと人間の倫理的関わりについて記事を書いています。

【ネコ学】猫の學校|猫の一生と環境整備の重要性を学ぶ

 

 猫を飼育する上で、大切なことはたくさんある。これまで、猫の習性や歴史などの記事は書いてきた。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

chine-mori.hatenabloなかった

 

 一方で、猫の一生についてしっかり学んだことはなかった。『猫の學校』を読んで分かったことは、猫の一生を学ぶことや環境を整備することについての大切さである。

 

 成長期、成熟期、老年期という3つの段階を経て、猫は人間と同じように成長していく。その中で、飼い主ができることは猫が健康で幸せに過ごせる環境を整えることである。

 

 猫との暮らしを深く理解し、猫との絆を深めるためにも猫の一生についてしっかりと学んでおきたい。

 

 今回は、本書で学んだこと3点について共有する。内容は、以下の通りである。

 

[内容]

■猫には3つの時代がある

■子猫時代に習慣にしておきたいこと

■猫にとって人は環境の一部

■まとめ

 

■猫には3つの時代がある

 

 本書では、猫の時代を3つに分けて解説している。生後2年間を「子猫時代」、2歳から12歳くらいまでを「成猫時代」、そしてそれ以降を「老猫時代」と呼んでいる。

 
①子猫時代

 

 生後、2年間が「子猫時代」である。猫が生きていくためには、基礎的なスキルを身につけることがこの時期で重要となる。その中でも、好奇心と警戒心のバランスをどう取るかによって、友好的な猫になるか人見知りしてしまうかに分かれる。

 

 猫は、雄雌ともに生後半年で妊娠可能な体になる。できるだけこの時期までに、不妊手術を行うことが理想的である。


②成猫時代

 

 2歳から12歳くらいまでが、「成猫時代」である。一般的に、猫それぞれの個性がより明確になり、体力と気力が共に充実してくる。

 

③老猫時代
 

 約12歳以降を「老猫時代」と呼ぶ。年齢を重ねるにつれて、活動量が徐々に減少していく。同時に、人とのコミュニケーション能力は高くなり、静かで平和な日々を好むようになる。

 

 このように猫は一生を通して、「3つの時代」を過ごす。本書によれば、猫にとって「子猫時代」が最も重要な時期である。

 

■子猫時代に習慣にしておきたいこと

 

 本書によれば、子猫時代の生後2ヶ月間が、猫の一生を左右するくらい重要な時期である。母猫から一人前の猫として生きていく上での教育を受けることになるが、飼い主として子猫のうちに慣れさせておきたいことのひとつに、全身をくまなく触ることが挙げられる。

 

 猫を撫でるときには、下から静かに指先を出して猫に匂いを嗅いでもらい、怖がらせないように注意する。猫が逃げたりせず、指先に口元や額をこすりつけたら、「撫でてよし」のサインである。そう思って、ゆっくりと頭頂部から尻尾にかけて指先を滑らせていく。

 


 子猫のうちに、人や他の猫に心が開けるような性格を身に付けることも、猫の心身の健康にとって重要である。猫の習性を理解した人が近くにいると、子猫は嫌な思いをすることなく人を恐れなくなる。

 

 一方、猫が嫌がることは怒鳴り声、騒々しい笑い声そして無理矢理抱くなどである。基本的に、このような猫の嫌がることをしないよう気をわれわれは気を付けなければならない。

 

■猫にとって人は環境の一部

 

 人間の住居は、猫にとって縄張りである。われわれが不快な感情を発散することは、猫にとって望ましくない。彼/彼女らは、自分たちの縄張りが常に安全で快適であることを望んでいる。

 

 そのため、われわれが猫と共に生活する場合、彼/彼女らがストレスを感じることのない環境作りが必要がある。

 

 「猫は家に懐く」と昔から言われているように、猫は縄張りに重点を置く動物である。われわれ人間も、自分たちが猫たちの縄張りであるという認識を持つことが重要である。

 

 そして、日常生活で「しなければならない」というよりも「したい」という気持ちを優先するよう心がけなければならない。そうすることで、猫たちとわれわれ人間は「快適な空間」を共有することができる。

 

 猫は、人の気持ちをよく察知する。喜びや楽しい気持ちだけでなく、怒りや不安などの負の感情も受け止める。病気や家庭内のストレスなども、猫の健康に影響を及ぼすことがある。

 

 特に繊細な猫の場合、家族と同じ病気を発症することがある。このように、猫と人の心は強く結び付いている。われわれ人間は猫たちが健康で幸せに暮らせるよう、彼らの健康管理や心理的ニーズにも配慮する必要がある。

 

■まとめ

  

 以上、今回は飼い主として猫の一生を学ぶことや環境を整備する必要性について述べた。

 

 猫は成長期、成熟期、老年期の3つの段階を経て成長していく。そのため、飼い主は猫が健康で幸せに過ごせる環境を整えることが大切である。このことを、本書を通して学んだ。【終わり】

 

【カント道徳哲学】「善意志」の絶対的優位性|ロールズの解釈を手がかりに【ロールズ】

 

 『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の到達地点は、「道徳性の最上原理を探求し、それを確定すること」(Ⅳ,392)である。その到達地点に向かうため、『基礎づけ』でカントは「善意志」(guter Wille)を出発点とする。

 

 その意味でも、カント道徳哲学の中で「善意志」は重要な位置を占める。しかしカントは、「善意志」についてあまり明確に語っていない。

 

 そこで、本記事では「善意志」の意義を明らかにすることを目的とする。本記事の結論は次の通りである。

 

 善意志以外のあらゆる価値からの絶対的優位性を「善意志」に与え、それを自明のものとしてカントは認めていた。

 

 上の結論を示すため、『基礎づけ』をテキストとして使用することはもちろんであるが、加えて『ロールズ 哲学史講義 上』を参考にする。

 

 『基礎づけ』で、最終的に「道徳法則」(moralisches Gesetz)をカントは導き出すことになる。その出発点となる「善意志」の意義を明確にすることは、カント道徳哲学全体の理解を一層深めることに繋がるだろう。

 

[内容]

■自明としての「善意志」

■「善意志」の絶対的優位性

■まとめ

 

■自明としての「善意志」

 『基礎づけ』第1章「通常の道徳的理性認識から哲学的な道徳的理性認識への移行」は冒頭、次の1文から始まる。

 

 この世界のうちで、いやそれどころか世界の外においてすらも、無制限に善いとみなしうるものがあるとすれば、それはただ善意志のみであって、それ以外に考えられない。(Ⅳ,393)

 

 この箇所でのポイントは、「善意志」を「世界の外」であっても「無制限に善い」とカントが捉えている点である。冒頭から、カントは「善意志」の中に、すでに自らの「道徳法則」への普遍化可能性の萌芽を見出しているように思われる。

 

 ところで、なぜカントは「善意志」を「道徳性の最上原理を探求し、それを確定する」(Ⅳ,392)ことを出発点としたのか。そもそも「善意志」とは一体何なのか。このような疑問が出てくるだろう。しかし、カントは「善意志」を出発点とした意図やその定義すらも行わない。

 

 河村も指摘するように、カントは「善意志」を誰もがすでに了解しているものとして語り始める。そこで前提されているのはヨーロッパ近代の社会道徳であり、その基礎となるキリスト教道徳である。ここに提示されている「善意志」は、特殊ヨーロッパ的な概念である。(注1)

 

 この河村の説明は、興味深い。ということは、ヨーロッパ文化圏以外では必ずしも「善意志」は自明性を持たなくなる。「善意志」が普遍性を持つかどうかは、実際のところ疑わしい。

 

 この点を深入りすると、本論から外れるのでこれまでとするが、「善意志」は自明のものであるという共通認識の下、カントは持論を展開する。次にロールズの解釈を手がかりに、「善意志」の意義について探っていく。

 

■「善意志」の絶対的優位性

 「善意志」という用語をカントは定義していないことを認めながら、ロールズは『基礎づけ』第1章第3段落にその糸口を求める。(注2)すなわち、われわれの「人格のあり方」(邦頁 233) や「傾向性から求めるもの」(ibid.)から「善意志」を区別する方法を採る。

 

 ロールズのまとめによると、次のようになる。(注3)

 

【カントが区別するわれわれの人格のあり方】

・精神面での才能:知性、機知、判断など

・気質:勇気、意志の強さ、目的貫徹など

 

 これらの性質の中に、「善意志」にとって特に役立つものもある。

 

【傾向性から求められるもの】

・運に恵まれること。権力、富、健康など

・自分の境遇に完全に満足しているという意味での幸福。理屈にあった仕方で自然な欲求が満たされいること

 

 上の2つは、「二次的な価値」(邦頁 234)でしかない。これらが価値を持つのは、意志が普遍的な目的を追求する上で助けになる条件のみである。

 

 ロールズのカント解釈を方法論的にみると、「善意志は○○ではない」というアプローチから、「善意志」の特徴を炙り出す彼の試みが確認できる。ロールズの立場に立つと、「善意志」はわれわれの「人格のあり方」でもなく「傾向性から求められるもの」でもない。

 

 『基礎づけ』の記述にあるように、善意志は「それ自体によって善い」(Ⅳ,394)ものである。そして善意志は「すべての傾向性全体のための満足のためにもたらすかもしれない一切のものよりも比較を絶して高く評価されるべき」(ibid.)ものである。

 

 このように考えると、「善意志」はわれわれの道徳的なあり方を超越した絶対的価値を含むものであると考えられる。このことに関して、ロールズは以下のように述べる。

 

 善意志はあらゆる条件下でつねにそれ自体で善だが、他方で善意志以外のすべてものはある特定の条件の下でのみ善である。そしてこのことは、仮言的善がそれ自体で善である場合も、手段として善である場合も、あるいはその両方である場合も、いずれにせよ成り立つのである。(邦頁 236)

 

 『基礎づけ』の文脈に照らして考えてみても、善意志以外のものは「仮言的善」なのかもしれない。つまり善意志以外は、すべて「目的のための手段」として善い。このように考えられる。

 

 その結果、「善意志」の2つの際だった特徴をロールズは指摘する。(注4)

 

・善意志は無条件に常にそれ自体で善である。

・善意志はそれ自体で善い他のすべてのものより価値がある。

 

 この特徴から分かるように、カントは「善意志」に「特別な位置」(邦頁 236)を与えている。それはあらゆる価値への「優位性」(ibid.)である。

 

■まとめ

 以上、本記事では『基礎づけ』での出発点である「善意志」をロールズの解釈を手がかりに検討した。「善意志」を『基礎づけ』での出発点とした意図や、その定義づけをカントは示していないことが明らかになった。

 

 それは善意志以外のあらゆる価値からの絶対的優位性を「善意志」に与え、それを自明のものとしてカントは認めていたからであろう。

 

 『基礎づけ』の出発点として「善意志」を据えたことは、カントに道徳に関する何らかの確信があったからかもしれない。【終わり】

 

(注1) 河村,2009, 参照。本論文は前批判期、批判期そしてそれ以降で「善意志」という用語のニュアンスが変遷していることを知る上で参考になった。

(注2)Rawls.J,2000,参照。

(注3)Rawls.J,2000,参照。

(注4)Rawls.J,2000,参照。

 

【参考文献】

Kant.I,1785:Grundlegung zur Metaphysik der Sitten(邦題:訳注・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、宇都宮芳明著、以文社、1989年.).

 

●Paton.H.J,1947:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy(邦題:定言命法ーカント倫理学研究、杉田聡 訳、行路社、1986年.).

 

●Rawls.J,2000:Lectures on the History of Moral Philosophy(邦題:ロールズ哲学史講義(上)、バーバラ・ハーマン編、坂部恵監訳、みすず書房、2005年.)

 

●藤本 一司,2005:カント倫理学における善い意志の概念- 単独性と無根拠からの生成 -、『釧路工業高等専門学校紀要第39号』所収、釧路工業高等専門学校、2005年.https://www.kushiro-ct.ac.jp/library/kiyo/kiyo39/fujimoto39.pdf

 

●河村 克俊,2009:善意志とその起源 : カント前批判期の「ボニテート」概念、『言語と文化 12』所収、関西学院大学、2009年.https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=23476&file_id=22&file_no=1

 

●北尾 宏之,2017:カント『道徳形而上学の基礎づけ』の研究(2)第一章の研究、『立命館文學(651)』所収、立命館大学人文学会、2017年.https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/kitao.pdf

 

【カント道徳哲学】カントの間接義務|家畜動物や伴侶動物を丁寧に扱うことは間接義務である。

 

 われわれ人間と人間以外の動物の倫理的関係のあり方について考える際、カント道徳哲学は大きな手がかりを与えてくれる。カント道徳哲学には様々な概念が存在するが、本稿では「間接義務」(indirekte Pflicht)について検討する。

 

 「間接義務」について検討することは、家畜動物や伴侶動物をカントがどのように捉えているかという理解に繋がる。今回は『人倫の形而上学』の「徳論」をテキストに、カントの「間接義務」を検討する。本稿の内容は、以下の通りである。

 

[内容]

■「間接義務」とは何か

■『人倫の形而上学』から見る「間接義務」

■まとめ

 

■「間接義務」とは何か

 まず、「間接義務」の一般的な定義について確認する。

 

間接義務はある存在に関する義務である。

 

 「直接義務」(direkte Pflicht)がある存在に対する義務である一方、「間接義務」はある存在に関する義務である(注1)。すなわち相手に対して直接的に果たすべき「義務」(Pflicht)ではなく、「間接義務」は相手の財産や所有物などに関して果たすべき「義務」である。

 

■『人倫の形而上学』から見るカントの「間接義務」

 

 では「間接義務」に関して、カントはどのように述べているか。車や時計と同様、家畜動物や伴侶動物も財産あるいは所有物であるとカントは捉えている。このことから、家畜動物あるいは伴侶動物も「間接義務」の対象であると考えることはカント的である。『人倫の形而上学』の「徳論」第1編で、カントは以下のように述べる。

 

 動物を手荒にそして同時に残酷に取り扱うことは、さらに一層心の底から人間の自己自身に対する義務に背いている。なぜなら、そうすることによって、人間の内に存在しているこれらの苦痛に対する共感は鈍磨され、それにより他人との関係における道徳性にきわめて役に立つ自然的素質もまた弱められ、次第に抹殺されることになる。・・・(中略)・・・また長年奉仕してくれた老いた馬や犬に対しても(それらが家族の一員であるかのように)感謝の念を懐くことすら、間接的に、すなわちこの動物に関する人間の義務に属している。しかしながら直接的に観るならば、それはあくまでも人間の自己自身に対する義務であるに過ぎない。(Ⅵ,443 太字は筆者)

 

 動物を残酷に扱わないことや老馬や老犬にも感謝の念を抱くことは「義務」であると、なぜカントは考えるのか。そうしなければ、「人間の自己自身に対する義務」にわれわれが背くことになるからである。

 

 人間以外の動物を残酷に扱ったりぞんざいに扱う行為によって、人間の中にある苦痛への共感が鈍磨される。また、他人との関係への道徳性に役立つような「誠実さ」や「親切心」などの自然的素質も衰えたり消滅する。

 

 このカントの議論から、老馬や老犬などの家畜動物や伴侶動物などの動物を丁寧に扱うことは「人間の自己自身に対する義務」に還元されると解釈してよい。家畜動物や伴侶動物を丁寧に扱うことは、彼ら/彼女らそれ自体への「直接義務」でははなく、われわれ人間への「間接義務」になる。

 

■まとめ

 

 以上、本稿から次のことが明らかになった。

 

・「間接義務」はある存在に関する義務である。

・家畜動物や伴侶動物を丁寧に扱うことは「間接義務」である。

 

 このように考えると、カントの立場は「人間中心主義」であるという見方も出てくる(注2)。一方、換骨奪胎したカント道徳哲学に依拠しながら「動物の権利」を基礎づける動きもある(注3)。この議論の検討は、本稿の意図から外れるので次回に譲る。【終わり】

 

(注1) Svoboda.T,2014 参照。

(注2) 田中,2009 参照。

(注3)例えば Regan.Tなど。田上,2021 参照。

 

【参考文献】

Svoboda.T,2014:A reconsideration of indirect duties regarding non- humanorganisms(Pre-Print Version),Ethical theory and moral practice,Springer Netherlands,2014.

 

田中 綾乃,2009:自然に対する義務と人間中心主義 ーカント哲学の人間観を手がかりに、『「エコ・フィロソフィ」研究(3)』所収、東洋大学「エコ・フィロソフィ」学際研究イニシアティブ(TIEPh)事務局 、2009. 

 

田上 孝一,2021:はじめての動物倫理学集英社新書、2021.

 

↓以下の記事も参照↓

chine-mori.hatenablog.jp

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【抄訳と訳注⑲】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

 

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p.183-pp.184) 

 

 A defender of Kant might object that Kant has been misinterpreted. It is, he holds, for humanity generally, not just for human moral agents, that things having value merely as a means, including animals, exist. Thus, all human beings, not just those who are moral agents, exist as ends in themselves, on his view, and the argument of the last paragraph is exposed as unfounded.

 

[訳]

 カントの擁護者はカントが誤解されていると反論するかもしれない。彼が主張するように、動物を含め、単に手段として価値あるものが存在するのは、人間の道徳的主体だけでなく、人類全般のためである。したがって彼の見解では、道徳的主体だけでなく人間すべてが目的それ自体として存在し先回の段落の議論は根拠のないものとして顕わになった。

 

[訳注]

 カントは誤解されていると、彼の擁護者たちは反論するだろう。人間以外の動物を含め単に手段として価値あるものが存在するのは、「人間の道徳的主体だけでなく、人類全般のため」(for humanity generally, not just for human moral agents)である。

 

Now, it may be that Kant thinks that all human beings, including human moral patients, exist as ends in themselves, but he cannot consistently think this. For since human moral patients lack the rational prerequisites for moral agency, they can have “only a relative value” and must, therefore, given Kant’s understanding of these matters, be viewed as things. This attempted defense of Kant misfires, therefore, and only serves to sharpen the dilemma he must face: he must choose between viewing human moral patients as ends in themselves, so that being a moral agent is not a necessary (though it may be a sufficient) condition of beings an ends in itself, or viewing these humans as having “only a relative value” as things.

 

[訳]

 さて、人間の道徳的受益者を含む人間すべてが目的それ自体として存在しているとカントは考えているかもしれないが、彼はこのことを一貫して考えることはできない。というのも人間の道徳的受益者は道徳的主体の合理的な必要条件を欠いているので、彼らは「相対的な価値しか」持たないことになり、これらの問題に関するカントの理解からすれば、物件として見なさければならないからである。つまり、人間の道徳的受益者を目的それ自体として、道徳的主体であることは目的それ自体であることの必要条件ではない(十分条件ではあるかもしれないが)と考えるか、これらの人間を物件として「単に相対的な価値しか」持たないと考えるか、どちらかを選択しなければならない。

 

[訳注]

 「人間の道徳的受益者」(human moral patients)を含む人間すべてが「目的それ自体」(ends in themselves)として存在するとカントは考えているかもしれない。しかし、彼の議論に一貫性がない。「人間の道徳的受益者」は、「道徳的主体」(moral agency)の「合理的な必要条件」(the rational prerequisites)を欠く。そこで、次の選択肢は2つしかない。1つ目は、「人間の道徳的受益者」を「目的それ自体」として「道徳的主体」であることは、「目的それ自体」であるための十分条件ではあるかもしれないが「必要条件」ではないと考える点である。2つ目は、これらの人間を「物件」(things)として「単に相対的な価値しか」(only a relative value)持たないと考える点である。このどちらかを、選択しなければならない。

 

If the chooses the former option, then we can have direct duties to human moral patients; if he chooses the latter, we cannot. Neither alternative is salutary for Kant. If the former is chosen, then he is obliged to surrender a central tenet of his ethical theory-namely, that only rational beings (i.e., only those who are moral agents) exist as ends in themselves. If the latter alternative is chosen, he is open to the charge of moral arbitrariness.

 

[訳]

 もし前者の選択肢を選んだならば、われわれは人間の道徳的受益者に直接的な義務を持つことができるが、後者を選択したならば、われわれはそれができない。どちらの選択肢もカントにとって有益ではない。前者を選択したならば、カントは倫理的理論の中心的な考えを放棄しなければならない。すなわち、理性的存在者のみ(すなわち、道徳的主体である者のみ)が目的それ自体として存在するということである。後者の選択肢が選ばれたならば、彼は道徳的恣意性の非難を受けることになる。

 

[訳注]

 どちらの選択肢も、カントにとって有益ではない。1つ目を選択したならば、カントは倫理的理論の中心的な考えを放棄しなければならない。2つ目を選択したならば、彼は「道徳的恣意性」(moral arbitrariness)の非難を受けることになる。【続く】

 

↓カントの「目的それ自体」に関して以下の文献を参照↓

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

 

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【抄訳と訳注⑧】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

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  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性 (p178-pp.179)

 

 Three preliminary criticisms are worth making before moving on to assess Kant’s general account of our duties involving animals.First, Kant is mistaken when he claims that “animals are not self-conscious.” Arguments have been advanced earlier (2.5) that make ascriptions of self-consciousness to animals both intelligible and confirmable. 

 

[訳]

 動物に関してわれわれの義務に関するカントの一般的な説明を評価する前に3つの予備的批判は価値がある。第1に、「動物は自己意識がない」と彼は主張しているが、カントは誤解している。動物への自己意識の帰属を理解可能かつ確認可能なものにする議論は以前(2.5参照)述べられた。

 

[訳注]

 動物に関する「義務」(duties)へのカントの説明を検討する前に、レーガンは3つの予備的批判を展開する。1つ目は、「動物は自己意識がない」というカントの誤解である。

 

Second, on one interpretation of what it means to “judge”, it is false that a dog and, by implication, similar animals” cannot judge”.If to judge that something is a bone requires (a) having a (even our) concept of bone and (b) applying that concept in a given case-that is, judging (believing) ‘That is a bone’-then it is false, for reasons given in chapter2, that “animals cannot judge”.If, instead, Kant has some other kind of judgement in mind- in particular, if he means that animals cannot make moral judgement by making reference to the categorical imperative-then what he says is doubtless true. 

 

[訳] 

 第2に、「判断する」とは何を意味するかについてのひとつの解釈について、犬、および暗に、類似の動物が「判断できない」ことは誤りである。何かあるものが骨であると判断するために、(a)(われわれでさえ)骨の概念を持ち、(b)その概念を特定のケースに適用する-つまり、「それは骨だ」と判断している(信じる)ー必要があるならば、第2章に示す理由から、「動物は判断できない」というのは誤りである。その代わり、カントが他の種類の判断を念頭に置いているなら、ー特に、動物が定言命法を参照して道徳的判断を下すことができないことを意味するならばー彼の言うことは間違いなく真実である。

 

[訳注]

 2つ目は、動物は「判断できない」(cannot judge)ことへの誤解である。ただし、動物が「定言命法」(categorical imperative)を基準に「道徳的判断」(moral judgement)を下すことができないことをカントが意味するならば、それは正しいことになる。しかし、カントはこのようなことを意図していないはずである。

 

The same is true of moral patients generally, however, so that Kant cannot disqualify animals as objects of direct moral concern because they cannot make moral judgement unless he also is willing to disqualify all moral patients.And to disqualify human moral patients, as will be argued below, will cause serious problems indeed for Kant’s general position.

 

[訳]

 一般的な道徳的受益者についても同じことが言えるので、カントはすべての道徳的受益者を失格としない限り、動物が道徳的判断を下せないという理由で、動物を直接的な道徳的関心の対象として失格とすることはできない。そして以下で議論されるように、人間の道徳的受益者を失格者と判定することは実際にカントの一般的な立場にとって深刻な問題を引き起こすだろう。

 

[訳注]

 「一般的な道徳的受益者」(moral patients generally)とは、例えば障害者などの存在である。レーガンによれば、このような「道徳的受益者」すべてを道徳的地位を持つ者として配慮の対象外としなければ、動物を直接的な道徳的関心の対象として排除できない。人間の「道徳的受益者」を道徳的配慮の対象外として判定することは、カント的には深刻な問題を引き起こす。

 

Third, in the passage just quoted Kant fails to support his assertion that animals exist “merely as a means to an end”, that end being “man”. And it is difficult to see how he could provide a compelling argument in this regard.The plausibility of viewing animals as having value only if or as they serve human ends lessens as we begin to recognize that, like relevantly similar humans, animals have a life of their own that fares better or worse for them, logically independently of their utility value for others.

 

[訳]

 第3に、引用された箇所で、動物は「単に目的のための手段として」存在し、その目的とは「人間」であるという自身の主張を支持することにカントは失敗している。そして、この点で彼が説得力ある議論を行うことは難しい。人間の目的に役立つ場合にのみ価値があると見なす妥当性は、関連する類似の人間のように、論理的に他の功利的価値とは無関係に、動物たちが彼らにとってよくも悪くも自身の人生があると認識するにつれ減少する。

 

[訳注]

 3つ目は、動物は「単に目的のための手段として」存在し、その目的は「人間」であるという自身の主張を支持することにカントは失敗している点である。人間の目的に役立つ場合のみ価値があると人間以外の動物を見なす妥当性は、人間以外の動物が彼/彼女自身の人生があることを認識するにつれ減少していく。この点で説得力ある議論を行うことは難しい。

 

It is thus exceedingly unclear how it could be correct supports that their value is reducible, without remainder, to their utility to mankind, unless one is willing to make the same judgement in the case of humans like these animals in the relevant respects, which Kant is not. This line of argument will be developed more fully momentarily.

 

[訳] 

 カントではないが関連する点でこれら動物のように人間の場合と同じ判断をしたいと思っていない限り、余すことなく人類への彼らの功利性に彼らの価値が還元できると支持することは非常に不明確である。この一連の議論は直ちにより完全に展開されるだろう。

 

[訳注]

 人間以外の動物もわれわれ人間と同じ判断をしようと思わない限り、人類への功利性に彼/彼女らの価値が還元できると支持することは不明確である。【続く】

 

本記事に関して、以下の書籍や記事も参照。

 

 

 

note.com

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【抄訳と訳注⑥】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
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  5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性(p.177)

 

 While Kant’s moral theory is not a version of egoism, it has affinities with the rational egoism of Narveson and the contractarianism of Rawls, when it comes to specifying those individuals to whom one has direct duties.

 

[訳]

 カントの道徳理論はエゴイズムの一種ではないが、直接的な義務を負う個人を特定する際、ナーブソンの合理的利己主義やロールズの契約主義と類似性がある。

 

[訳注]

 カントの道徳理論はもちろん、「エゴイズム」(egoism)ではない。しかし誰に「直接的な義務」(direct duties)を負っているかをカント的に考えるとき、カントの理論は「合理的利己主義」(the rational egoism)(注1)や「契約主義」(the contractarianism)(注2)と「類似性」(affinities)を持つ。

 

On the rational egoism model, these are, as we know, those individuals, and only those individuals, who are themselves capable of entering into the “agreements” that are chosen to mutually regulate the behavior of individual rational egoists; moral patients in general and animals in particular are excluded.

 

[訳]

 合理的利己主義モデルに関して、われわれが知っているように、これらは個々の理性的なエゴイストの行動を相互に調整するため選択された「合意」に加入できる個人が対象である。つまり道徳的な受益者、特に動物は一般的に除外される。

 

[訳注]

 「合理的利己主義モデル」(the rational egoism model)では、「合意」(agreements) に参加できる個人が対象となる。すなわち、人間以外の動物はその対象から除外される。

 

The same is true, though for different reasons, given Kant’s position.Moral agents have direct duties only to moral agents, whether themselves or others. This is so, on Kant’s view, because beings who exist but are nonrational have “only a relative value” and thus fail to be ends in themselves.

 

[訳]

 カントの立場を考えると、様々な理由はあるが、同じことが当てはまる。自分自身であれ他人であれ、道徳的主体は道徳的主体にのみ直接的な義務を負う。カントの見解によると、存在者であるが非理性的存在者は単に「相対的な価値しかない」ため、目的それ自体にはならないからである。

 

[訳注]

 カントも、特にナーブソンの「合理的利己主義モデル」と同様の立場をとる。「道徳的主体」(moral agents)は、他の「道徳的主体」にのみ直接的な義務を負う。なぜなら、「非理性的存在者」(beings who exist but are nonrational )は「単に相対的な価値」(only a relative value)しか持たないため、「目的それ自体」(ends in themselves)ではないからである。

 

Because they fail to have independent value, we have no direct duty to them to treat them, in accordance with the formula on Ends in Itself, in those ways we are duty -bound to treat those beings (rational beings, moral agents) who are ends in themselves.

 

[訳]

 彼らは独立した価値を持っていないため、目的それ自体の法式に従って、われわれが彼らを扱う直接的な義務はない。これらの方法で、われわれは目的それ自体でのこれらの存在(理性的存在者、道徳的主体)を扱う義務がある。

 

[訳注]

 人間以外の動物は、「独立した価値」(independent value)を持っていない。「目的それ自体の法式」(the formula on Ends in Itself)に従うと、「道徳的主体」である「理性的存在者」(rational beings)とは対照的に、われわれは彼/彼女らに直接的な義務はない。

 

If we have duties to nonrational beings, they must be indirect duties, or duties having an indirect bearing on our discharging those duties we have directly to moral agents, ourselves or others.

 

[訳]

 非理性的存在者への義務をわれわれが持つのであれば、それらは間接的な義務または、道徳的主体であるわれわれ自身または他者に直接負う義務を果たすことに間接的に関係する義務でなければならない。

 

[訳注]

「非理性的存在者」に対してわれわれが「義務」持つのであれば、その義務は「間接的な義務」(indirect duties)(注3)である。【続く】

 

(注1)ナーブソンの「合理的利己主義」に関して以下の文献を参照。

The Libertarian Idea

The Libertarian Idea

Amazon

 

●森村 進,2008:ジャン・ナーヴソンの契約論的リバタリアニズム、『一橋法学7巻2号』所収、一橋法学大学院法学研究科法学部、2008年. https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/15899/hogaku0070200150.pdf

 

(注2 )ロールズについて以下の文献を参照。

 

 

(注3) カント「間接的な義務」に関して以下の文献を参照。

 

 

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

 

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【抄訳と訳注⑤】Tom Regan,1983:The Case for Animal Rights (p.174-pp.185)【カント道徳哲学】

The Case for Animal Rights

The Case for Animal Rights

  • 作者:Regan, Tom
  • University of California Press
Amazon

 

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5.5 カントの立場:目的それ自体としての人間性  (p.176ーpp.177)

 

 Kant’s understanding of the foundation of morality, unlike Narvison’s and Rawls’s, is not egoistic. We are not to imagine that morality arises from, or consists in abiding by, agreements(contracts) reached by rational, self-interested individuals because it is in their long-term self-interest to do so.

 

[訳]

 ナ-ブソンやロールズと異なり、道徳の基礎へのカントの理解は利己的ではない。長期的で利己的であるため、合理的で利己的な個人によって結ばれた合意(契約)から道徳性が生じ、または遵守する中で道徳性が成立するとわれわれは考えてはいけない。

 

[訳注]

 ナ-ブソンやロールズの立場では、人間は「利己的」(egoistic)な存在である。一方、カントは「理性的存在者」(rational beings)として人間を捉える。ナ-ブソンやロールズの人間観に基づくならば、道徳性を生じさせるために、「合意」(agreements)や「契約」(contracts)が必要になってくる。しかしカントによれば、「合意」や「契約」を遵守する中で道徳性は成立し得ない。

 

Indeed, for Kant, to view morality as grounded in self-interest is to leach the very life blood from it. What morality presupposes, on this view, is that, independently of any consideration of self-gain, individual moral agents can do what is right because it is the right thing to do.It is only when individuals do their duty, because it is their duty, that what they do has moral worth.

 

[訳]

 確かに、カントにとって、道徳性を利己主義に基づくと見なすことは、そこからまさに生命を奪うことである。この見方によれば、道徳性が前提とすることは、自己利益を考慮することなく、正しいことだから個々の道徳的主体は正しいことを行うことができるということである。義務であるゆえに、個人が自らの義務を果たすときだけ、その行為は道徳的価値を持つ。

 

[訳注]

 カントの「道徳性」(morality)の前提は「正しいことだから個々の道徳的主体は正しいことを行うことができる」点である。このレーガンのカント解釈は、「定言命法」(categorical impertive)にも繋がると考えられる。また「義務であるゆえに、個人が自らの義務を果たすときだけ、その行為は道徳的価値を持つ」というレーガンの理解は、カントの「義務」(duty)に関する「道徳性」に通じる。

 

To suppose, as Nerveson and Rawls do, that the basis of morality is self-interest is to destroy the very possibility of morality, as Kant understand this.Moreover, though on Kant’s view moral agents do stand in a relationship of reciprocity, in the sense that fundamental direct duty I have to any moral agents is very same duty that any moral agent has to me, the obligatoriness of my treating you with respect, as benefits your independent value, is not contingent upon your treating me in a reciprocal way.

 

[訳]

 ナーブソンやロールズのように、道徳の基礎が利己主義であると仮定することは、カントが理解していた、道徳性の可能性を破壊することになる。さらに、カントの見方では、道徳的主体は互恵関係にあるが、道徳的主体に私が持つ基本的な直接義務は道徳的主体が私に持つ義務とまさに同じであるという意味で、あなたを尊敬と共に扱う義務は、あなたの独立した価値のため、あなたが私を互恵的に扱うことを条件としていない。

 

[訳注]

 道徳の基礎が利己主義であると仮定することは、道徳性の可能性を破壊することになる。カントの見方では、道徳的主体は互恵関係にある。私が持つ直接義務はあなたが私を互恵的に扱うことを条件としていない。このレーガンのカント理解は、「定言命法」の「目的それ自体の法式」を下敷きにしていると考えられる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

【参考:The Categorical Imperative: A Study in Kant's Moral Philosophy]】

 

The direct duties I have to you would not evaporate or diminish if you failed to fulfill your duties as they affect me, or vice versa

 

[訳]

 私に影響を与えるように自らの義務を果たすことができなくても、またその逆でも、私があなたに課す直接義務は消滅したり減少したりしないだろう。

 

[訳注]

 自らの「義務」が結果的に果たせなかったとしても、「義務」は消滅したり減少したりはしない。カントにとって結果でなく、われわれの行為が「義務」に基づいているかどうかが問題となる。

 

【参考:過去記事】

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Such failure on your part, fulfill your duties to me, which would destroy the foundation of our moral relations given a view. Since I am not a participant in the moral game, so to speak, because of what I stand to gain by playing, the rules are not rescinded or eased by your behaving in ways that flaunt them and harm me.

 

[訳]

 ある見方を与えられたわれわれの道徳的関係の基礎を破壊することになるあなた側のそのような過失は、私にあなたの義務を果たすことになる。いわば道徳的なゲームの参加者ではないので、プレーすることで得られるもののため、ルールを破り私を傷つけるような行為によってそのルールが取り消されたり緩和されたりしない。

 

[訳注]

 「過失」(failure)によって「われわれの道徳的関係の基礎」(the foundation of our moral relations) が破壊されたとしても、「義務」は果たされたことになる。「道徳的なゲーム」( the moral game)での「ルール」(the rules)が守られず破られたとしても、その「ルール」自体が消滅したり「緩和」(eased)されることはない。

 

For my part, I must continue to act as morality requires, out of respect for what is right, not with a view to my self-interest.

 

[訳]

 私にとって、何が正しいかという点から離れて、自らの利己主義の観点ではなく、道徳的な要求通りに行為を継続しなければならない。

 

[訳注]

 カントにとっては、「私にとって」(for my part)「何が正しいか」(what is righ)ということや「利己主義」(self-interest)と道徳的行為は無関係である。あくまで「道徳的な要求」(morality requires)に従って行為し続けなければならない。【続く】

 

ロールズについて次の文献を参照。

 

ナーブソンについて以下の文献を参照。

 

森村 進,2008:ジャン・ナーヴソンの契約論的リバタリアニズム、『一橋法学7巻2号』所収、一橋法学編集委員会編、一橋大学大学院法学研究科、2008年.

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/15899/hogaku0070200150.pdf

 

※誤訳や認識不足などございましたら、コメント欄に書き込みして頂けると幸いです。

 

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【第2回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で『理性の構成』を基に、教師に代表される教育実践を司る立場は「特定」の他者である眼前の子どもに、ある行為を果たすことあるいは控える「義務」を要求される、という結論を提示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 更に歩を進めるため、『理性の構成』での該当箇所を引き続き検討する。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

■子どもへの教育実践と「不完全義務」

 

 『理性の構成』の中でオニールは、「不完全義務」について次のように述べる。

 

不完全義務は、伝統的には、援助・配慮・思いやり・才能の開発などの事柄を含むと考えられており、他者はそれらの事柄が具体的に実行されることに対して権利を持っていないけれども、行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている。(O'Neill,1989,邦頁388)

 

 上記の箇所によれば、伝統的に「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」などの事柄を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を他者は持たない。

 

 一方、行為者は何かの形でいずれかの他者へ、その事柄を実行することが義務づけられる。

 

『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)の中で、確かにカントは「不完全義務」の事例として「自己実現」と「援助」を挙げている(注1)

 

 また『人倫の形而上学』の「徳論」の中でも、「自己の完成」(注2)と「他人の幸福」を「不完全義務」としてカントは挙げていることが読み取れる。

 

【参考:道徳形而上学の基礎づけ】

 

【参考:人倫の形而上学

 

 これまでの議論から、ここでいう「他者」とは眼前にいる子どもであり、「行為者」とは教育実践を司る立場である教師であると考えられる。

 

 ということは伝統的カント解釈では、「不完全義務」は「援助」や「才能の開発」を含む「自己の完成」を含む。それら事柄が、具体的に実行されることへの権利を子どもは持たない。

 

 一方、行為者である教師は何らかの形で子どもにその事柄を実行することは「義務」である。

 

 このオニールの主張を受け容れるならば、教師という立場は次のようになるだろう。すなわち、教師は子ども自身の「自己の完成」とその「援助」という「不完全義務」を遂行する立場であると。

 

 この立場と共に「行為者は何らかの形でいずれかの他者へその事柄を実行することを義務づけられている」という記述から、『人倫の形而上学』での「活動の余地」を残す教育実践を、オニールは教師に要求していることが窺える。

 

 では、なぜ子どもは「自己の完成」に対する「援助」が必要なのか。この点に関して、オニールの次のような人間観から読み取ることができる。

 

人間は単に理性的存在者であるだけではない。人間の合理性と相互間での自立性-それはまさに人間の行為者性の基礎である-が不十分であり、相互に傷つきやすく、社会的に生み出されるという意味で人間は傷つきやすく、援助を必要とする存在でもある。(O'Neill,1989,邦頁388-389 太字は筆者)

 

 この箇所で、オニールは人間を「理性的存在者」である同時に「傷つきやすく、援助を必要とする存在」という人間観を提示する。これは、「理性的存在者」である同時に「感性的存在者」であるというカントの人間観を踏襲していると考えられる。

 

 特に「傷つきやすく、援助を必要とする」特定の時期が存在する。それが、オニールにとっての子どもの時期である。

 

 続いて、オニールは子どもの教育と「不完全義務」について『基礎づけ』の「普遍的法則の方式」の「意志における無矛盾」で用いられた論じ方を基に、持論を展開する(注3)

 

援助も必要とする多くの個別的な理性的存在者は、相互無関心という原則に基づいて普遍的に行為することはできない。もし理性的存在者がそのようなことを行うならば、その時期に行為の原則を採用できない者に対する行為者性は衰えて縮小してしまう。その結果として普遍的に共有されうる原則に基づく行為の可能性そのものが蝕まれてしまうであろう。理性的であると共に援助を必要とする存在者が、相互に[自分に対する]すべての援助を拒否するという原則、あるいは、行為のための能力を強化し、発達させるための努力を何も行わないという原則に基づいて行為することは、普遍的なものとしては可能ではない。(O'Neill,1989,邦頁389)

 

 援助を必要とする「理性的存在者」は、相互無関心という原則に基づき普遍的に行為できない。

 

 もし「理性的存在者」がそのように行為するならば、子どもの時期に行為の原則を採用できない者への行為者性は縮小する。

 

 理性的であると同時に援助が必要である存在者が「援助すべてを相互に拒否する」という原則、あるいは「行為のための能力を強化し発達させる努力を何も行わない」という原則に基づく行為は、普遍的ではあり得ない。

 

 ただし、オニールは「他者」として子どもすべてを援助する限界を認める。同時に、子どもの能力を援助し発達させる義務は、「不完全義務」でなければならないことをオニールは明らかにする。

 

 こうした義務によって要求される特定の行為には、「活動の余地」が残される。子どもと共に生活し働く教育実践者としての教師は、彼/彼女の「ケア」と教育の双方に積極的に参加しなければならない。

 

しかしながら、あらゆる仕方ですべての他者を援助することは不可能である。だからこそ他者の能力を援助し発達させる義務は不完全義務でなければならない。こうした不完全義務は、特定の他者への援助となる特定の行為を指示しない。不完全義務の構成が、合理的であると共に援助を必要とする存在に対して委ねるのは、人間の潜在的能力を援助することの原則的な拒否とその潜在的能力を発達させることの原則的な放置を避けることだけである。こうした義務によって要求される特定の行為は、生活が異なれば、それに応じて変化する。子どもたちと共に生活し働く者は、[子どもたちのケアと教育の両方に関して]何もしないことが上記の義務を原則的に拒否することにはならないとしても、子どもたちのケアと教育の双方に積極的に参加しなければならないと考えるであろう。(O'Neill,1989,邦頁389-390)

 

「他者の能力を援助し発達させる義務」は、「不完全義務」でなければならない一方、すべての他者を援助することは不可能であるし、「不完全義務」は特定の他者への援助となる特定の行為を支持しないという「活動の余地」をカントに従ってオニールは認めている。この箇所は、注目すべき点である。

 

 これを子どもへの教育実践に置き換えると、次のようになるだろう。

 

 すなわち、「他者の能力を援助し発達させる義務」として子どもへの教育実践は「不完全義務」である、と。

 

 ただし、すべての「他者」である子どもたちを援助することは不可能である。また「不完全義務」は「活動の余地」があるため、眼前にいる特定の子どもたちに援助する行為は特定的ではない。

 

 これは子どもたちへの教育実践はもちろんそれ以外の「ケア」も同様であり、双方積極的に参加しなければならない。この活動の主体となるのは、学校現場では主に教師である。

 

■まとめ

 以上、『理性の構成』での議論をまとめると、教師の役割に代表される教育実践は「不完全義務」であることが結論づけられただろう。「他者」としての子どもの「能力を援助し発達させる」ことは「義務」である一方、その範囲は限定的であり方法も特定的ではない。

 

 本稿で子どもへの教育実践のあり方が明示されたが、カントは子どもへの教育実践を具体的にどう考えていたか。ここに足を踏み入れることはできないが、『実践理性批判』や『人倫の形而上学』で登場する「道徳的問答教示法」がカントによるこの問いへの回答である(注4)

 

 教育は理論と実践が、両輪でなければならない。子どもへの教育について、学校現場や地域で取組まれた実践事例なども大いに有効であろう。一方で、カントに代表される古今東西の哲学者などの考えも示唆に富む。

 

 子どものため、または社会全体の利益に繋げるため教育実践は日々行われる営みであることは間違いない。その目標を見失わず、理論が実践を伴っているか、また実践が理論を根拠としているかという点を常に自己点検し、日々子どもたちと向き合う姿勢こそ教師にとって必要であるように思われる。【終わり】

 

(注1) Ⅳ,422-423 参照。

 

(注2) 『人倫の形而上学』では「自己の完成」について、能力開発を意味する「自然的完成」と「道徳的完 成」という両方の発展と増大を「不完全義務」としている。

 

(注3) O'Neill,1989,邦頁391 参照。

 

(注4)「道徳的問答教示法」について、『実践理性批判』の第2部「純粋実践理性の方法論」及び『人倫の形而上学』の「徳論」第2編「倫理学方法論」を参照。その他、以下の論文も参考になる。

 

・中沢哲,2001:カントにおける道徳教育方法論の思考法、『教育哲学研究 巻 83 号』所収、教育哲学会、2001年.https://www.jstage.jst.go.jp/article/kyouikutetsugaku1959/2001/83/2001_83_60/_pdf/-char/ja

 

・広瀬悠三,2013: 子どもに道徳を教えるということ-カントにおける道徳的問答法の意義を問う、『京都大学大学院教育学研究科紀要 59』所収、京都大学大学院教育学研究科、2013年. https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173243/1/eda59_291.pdf

 

【第1回】子どもへの教育実践は「不完全義務」か-『理性の構成』を手がかりに【教育倫理学】

 

 前回の記事で、カント「不完全義務」は「活動の余地」を持つ「義務」であるという結論を示した。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 教育倫理学的視点で理解するため、この結論を足がかりに、子どもへの教育実践は「不完全義務」であるかという問いについて考察する。

 

 この作業を、カントに忠実な解釈を行うという評価が高いオニール(注1)の『理性の構成』を手がかりに、2回に渡り行う。

 

 内容は、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】子どもへの「義務」で要求されること3点

【第2回】子どもへの教育実践と「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

 子どもへの教育実践について考える前に、子どもへの「義務」それ自体について『理性の構成』でのオニールの立場を検討する。

 

子どもへの「義務」で要求されること3点

 

 まず始めに、「子どもたちの生活」それ自体についてオニールはどう考えているかを確認する。『理性の構成』第10章「子どもたちの権利と生活」で、オニールは子どもたちの生活を次のように定義する。

 

子どもたちの生活は決して私的な問題ではなく、子どもたちの権利を促進することによってかなえられうる一つの公共的な関心事なのである。(O'Neill,1989,邦頁367)

 

 この箇所からも分かるように、オニールは「子どもたちの生活」をひとつの「公共的な関心事」として捉えている。

 

 「子どもたちの生活」は、単に家庭だけはない。学校教育の場も、「公共的な関心事」として彼/彼女たち生活の場であると考えられる。

 

 さて、『理性の構成』でオニールは子どもへの「義務」で要求されることを以下の3点に整理する(注2)

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 では、オニールの言う子どもを教育する「義務」で要求されることは何か。以下、3点を順に検討する。

 

①「すべて」の他者にこの種の行為を果たすことあるいは控えること

  

 オニールの言う「すべて」の他者とは、子どもたち「すべて」を意味する。『理性の構成』での「この種の行為を果たすことあるいは控えること」とは、子どもたちすべてを「酷使したり性的虐待しない」ということである。この行為は、われわれすべてが「義務」の行為主体となる。

 

 この意味で、酷使したり性的虐待をされない権利を所有する者はすべての子どもとして「特定される」(O'Neill,1989,邦頁371)。「子どもたちを酷使したり性的虐待しない義務」は、「普遍的義務」である(ibid.)。

 

 なぜなら、「誰に対しても責任を負っている」(ibid.)からである。この意味で「普遍的義務」は「完全な」(O'Neill,1989,邦頁371-371)または「完璧な義務」(O'Neill,1989,邦頁371)である。

 

 カント的に考えると、①のオニールの視点は「完全義務」として考えられる。「酷使したり性的虐待をしない」という「義務」は、どの子どもにも該当する。どの子どもにも、われわれはこの「責任を負っている」。

 

 また、子どもを「酷使する」ことや「性的虐待をする」という行為それ自体が義務違反である。両者の行為に程度問題は発生しない。

 

 この意味で、子どもを「酷使したり性的虐待しない」という「義務」は、カントの言う「狭い義務」(Ⅳ,424)つまり「完全義務」として考えた方がよい。

 

②「特定」の他者にある行為を果たすことあるいは控えること 

 

 オニールによれば、「特定」の子どもにその「ケアを引き受けてきた人々」(O'Neill,1989,邦頁371)はその子どもたちに「義務」を持つ。

 

 「特定」の子どもへの「義務」は、「完璧にあるいは完全に」(ibid.)その主体は特定される。その「義務」は「完全義務」ではあるが、「特定の行為主体によって特定の子どもたちに対して果たされる」(ibid.)。

 

 まず、ここで確認しておきたいことが2点ある。

 

 1つ目は、オニールは子どもを具体的に示していない点である。

 

 本書によれば、②に対応する「義務」は「完全義務」である。ただしこれは、「特定の行為主体」(ibid.)に対応して「特定の子どもたち」(ibid.)に果たされる「義務」である。「民法」に照らして子どもを0歳から17歳までと考えるならば(注3)、それぞれ年齢に応じた発達段階がある。

 

 また障害の有無や家庭環境なども考慮すると、子どもは多種多様な存在である。その年齢や環境に応じて対応すべき行為主体や方法は、異なってくる。

 

 2つ目は、オニールが「ケア」を厳密に捉えていない点である。

  

 『ケアリング』の中でノディングスが言うように、「ケア」の「精神的な関わり合い」(Noddings,1984,邦頁3)をもちろんオニールも踏襲しているように思われるが(注4)、「ケアを引き受けきた人々」は様々な子どもの状況に応じて存在する人々だと理解できる。

 

【参考:Caring-A Feminine Approach to Ethics & Moral Education】

 

 両親だけでなく例えば乳児であれば保育士であり、児童であれば小学校教諭などである。その他、障害の有無や家庭環境などに応じて、特別支援学校教諭やソーシャルワーカーなども考えられる。

 

 このように、「特定の子どもたち」に応じて「特定の行為主体」が決定される。それに応じた「ケア」が、それぞれの子どもに果たさなければければならない。

 

 この意味で②の「義務」は「完全義務」であるが、「特定の子どもたち」に応じて「行為主体」が特定されるとオニールは明示しているのだろう。

 

③「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者にある行為を果たすことあるいは控えること

 

 ③に関してオニールによれば、子どもを「ケア」するためにわれわれ大人は次の2種類の「義務」を持つ(注5)

 

・親切であり思いやりを持つ

・大人の面倒をみなければならない時とは異なる方法で面倒をみる

 

 確かに、上記2つの「義務」は行為者すべてを拘束するかもしれない。

 

 しかしこの「義務」は、特定された権利の所有者が存在しない。どの権利の遂行を、要求も放棄も誰もできない。したがって、基本的な義務を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 また社会的で制度的文脈から分離されて考慮された場合、普遍的でない基本的義務は「完璧ではない」あるいは「不完全」である。

 

 ここで、オニールの議論を検討する。まず「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、どういうあり方なのか。

 

 この疑問を解決するため、カントの『教育学』がひとつの手がかりになり得る。

 

 『教育学』冒頭で、カントは次のように述べる。

 

人間は教育されなければならない唯一の被造物である。教育とは、すなわち養護(保育、扶養)と訓練(訓育)と教授ならびに陶冶を意味する。これに従って、人間は乳児でありー生徒であり―そして学生である。(Ⅸ,441)

 

【参考:教育学】

 

 『教育学』によれば、教育とは「養護・訓練・教授・陶冶」である。これに従って、「乳児・生徒・学生」に教育を施す。「乳児・生徒・学生」とは、子どもを意味する。それ以外の存在を、「大人」と理解していいだろう。

 

 ということは「大人」と「異なる方法で面倒をみる」とは、「養護・訓練・教授・陶冶」と考えていいだろう。

 

 ③の記述から、オニールが見ている「義務」の対象の視野は広いように思われる。つまり、「義務」の対象として眼前に存在しない子どもにまでオニールは拡大している。

 

 そのような子どもを、「不特定」の他者あるいは「すべてとは限らない」他者とオニールは呼ぶ。

 

 例えば「不特定」で「すべてとは限らない」子どもとは、遠くの国にいる子どもであり、これから誕生する子どもを意味するのかもしれない。

 

 いずれにせよ、今眼前にいない子どもを考えるならば、「権利の所有者」は存在しないし「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる、というのがオニールの見解である。

 

 この意味で③は、「完璧ではない」あるいは「不完全」な「義務」である。

 

 以上、オニールの見解に従って子どもへの「義務」で要求される3点を検討してきた。この結果から、次のことが考えられる。

 

 すなわち①の対象は、子どもたちすべてである。①は、子どもすべてを「酷使したり性的虐待をしてはいけない」という「義務」である。①の対象は既に決定され、それに合わせた「義務」も決定している。

 

 カントの用語で言い換えると、①で要求される「義務」は対象も行為も「狭い」すなわち「完全」である。

 

 ②の対象は、「特定」の子どもである。その子どもたちに応じて「特定の行為主体」の役割が代わり、その役割に応じて子どもへの「ケア」が変わってくる。

 

 カントの用語で言い換えると、②で要求される「義務」は対象が「特定されている」という意味で「狭い」すなわち「完全」であるが、役割に応じて子どもへの「ケア」の方法が変わってくるという意味で「広い」すなわち「不完全」である。

 

 ③の対象は、「不特定」の子どもである。「義務」を履行された結果は状況に応じて異なる。

 

 カントの用語で言い換えると、③で要求される「義務」は対象も行為も「広い」すなわち「不完全」である。

 

 『理性の構成』の議論に基づくのであれば、直接関わらなくても「酷使したり性的虐待」しないというように、子どもたちの心身や生活を保護するというわれわれの道徳的態度が「完全義務」として基盤となるだろう。

 

 更に子どもへの教育実践に考えを進めるならば、教師に代表される立場は、②という子どもへの「義務」を要求されることになるのだろう。この考察は、次回へ続く。【続く】

 

(注1) 「オニールのカント研究は、英米圏のカント研究の中で最も洞察と分析に優れたものの一つであると同時に、カントに忠実な解釈であるとして現在でも変わらず高く評価され続けてきている。」(加藤,2020,462)

 

(注2)  O'Neill,1989,邦頁370-372 参照.

 

(注3) 2022年4月から日本では18歳成人に引き下げられる。今回はその法的基準に準じた。

 

【参考:政府広報オンライン

www.gov-online.go.jp

 

(注4)邦訳書は次の書籍を参考。『ケアリング 倫理と道徳の教育ー女性の観点から』、立山・林他訳、晃洋書房、1997年.http://www.koyoshobo.co.jp/book/b312849.html 

 

(注5) O'Neill,1989,邦頁372 参照.

 

【次の記事】

chine-mori.hatenablog.jp

【第2回】カント「不完全義務」を再解釈する|「不完全義務」は「例外を許す義務」なのか【カント道徳哲学】

 

 【第1回】の記事で、カントの「不完全義務」は「例外を許す義務」という解釈は、カント道徳哲学の体系から大きく外れることを指摘した。

 

 そして道徳の「普遍化可能性」を維持する目線をカントは常に保ち続けていると考えるならば、「義務」に例外を認める立場はカント道徳哲学にとってあり得ないという筆者の立場を明らかにした。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 では、どう「不完全義務」を解釈すればよいか。その手がかりを、『人倫の形而上学』に求める。本記事の内容は、以下の通りである。

 

[内容]

【第1回】『基礎づけ』での「不完全義務」の位置づけ

【第2回】「活動の余地」としての「不完全義務」

【第2回】まとめ

 

■「活動の余地」としての「不完全義務」

 

 「活動の余地」という概念は、『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』と略記)や『実践理性批判』の中では見当たらない。

 

【参考:道徳形而上学基礎づけ】

 

【参考:実践理性批判

 

 

 『人倫の形而上学』の中で、この概念は初めて登場する。端的に言うと、「活動の余地」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で「義務に基づく」行為を行うかは各々の裁量に委ねられる。

 

 『人倫の形而上学』で、「自然的完成」(Ⅵ,392)と「他人の幸福」(Ⅵ,394)を例に取り上げた後、カントは以下のように述べる。

 

他人の幸福を促進することは、そうした格率が普遍的法則とされたならば自己矛盾した格率となろうからである。それゆえ、この義務は広い義務であるにしかすぎない。そこである程度の活動の余地がこの義務はあり、その範囲を確定することはできない。(ibid.)

 

 『人倫の形而上学』の中で「完全義務」に対して、カントは「不完全義務」を「倫理的義務」または「徳の義務」(Ⅵ,390)と位置づける。「自然的完成」と「他人の幸福」を「広い義務」として、カントは挙げる。

 

 『基礎づけ』での「自己実現」と「親切」という「不完全義務」の例が、それぞれ「自然的完成」と「他人の幸福」と対応しているならば、『基礎づけ』や『実践理性批判』でのカントの議論は一貫しているだろう。

 

 さて『基礎づけ』と『人倫の形而上学』から上記の引用箇所を検討すると、「他人の幸福」は「広い義務」に相当する。「広い義務」である「不完全義務」には、「ある程度の活動の余地」があり「その範囲を確定」できないことが、この箇所から明らかになる。

 

 これは、「自然的完成」でも同様である。この点に関して、カントは以下のように述べる。

 

自分の自然的完成に関する人間の自己自身に対する義務は、たんに広いしかも不完全義務に過ぎない。なぜならこの義務はたしかに行為の格率に対する法則を含んではいるが、しかし行為そのものに関しては、その仕方および程度についてのなにも規定せず、自由な選択意志に余地を許しているからである。(Ⅵ,446)

 

 この引用箇所からも分かるように、『人倫の形而上学』によれば「自然的完成」に関する自己自身への「義務」は「広い義務」または「不完全義務」である。

 

 「他人の幸福」と同様、「自然的完成」も「その仕方および程度」について何の規定もない。なぜなら、その行為の格率は「自由な選択意志」に余地を認めているからである。

 

 また『理性の構成』の中で、オニールも「不完全義務」を『人倫の形而上学』に即して解釈する。要約すると、次の通りになるだろう。

 

意欲に関わる非一貫性を明らかにする議論の実例は、「体系的に慈善を行わない」格率または「体系的に才能をなおざりにする」格率の採用が道徳的に無価値であることを示すに過ぎない。それら格率が基礎づける義務は、相対的に未確定な徳義務である。これら議論の第1の義務は「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で助けることが、道徳的に価値があるかを規定しない。「慈善を行わない」という基本的意図を採用することが道徳的に無価値であることを単に明確にするだけである。同様に、2つ目の議論は「どの才能を・誰に・どの範囲で・どれくらいのコスト」で開発することが道徳的に価値を持つかを立証しない。「才能を開発する努力を行わない」という基本的意図を採用することが、道徳的に無価値であることを単に証明するに過ぎない。(O'Neill,1989,邦頁195ー196 要約.)

 

 「意欲に関わる非一貫性」は、「定言命法」の「意欲の無矛盾性」と関係する(※1)

 

 「慈善を行わない」格率または「才能をなおざりにする」格率は、『基礎づけ』でいう「親切」と「自己実現」のそれぞれの反例である。また上記の引用箇所で、オニールのいう2つの格率は『人倫の形而上学』での「他人の幸福」と「自然的完成」に対応する。

 

 オニールによれば、上記2つの格率は共に「誰を・どの範囲で・どんな方法で・どれくらいのコスト」で実践するかカントは規定していない。「慈善を行わない」格率や「才能を開発する努力を行わない」格率を採用することは「道徳的に無価値である」ことを単に証明するだけである。

 

【参考:Construction of Reason】

 

【参考:理性の構成】

 

 『基礎づけ』の中で「完全義務」の例としてカントは「自殺」や「虚言」を挙げる。「自殺」にしろ「虚言」にしろ、いつ、どこで、どの程度そしてどの方法で自らを傷つけたかまたは嘘をついたのかは問題にならないだろう。程度に関わらず、とにかく「自殺」や「虚言」はカント的には義務に反する行為である。

 

 この意味で「自殺」や「虚言」などの義務は、「活動の余地」のない「狭い義務」であり「完全義務」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 一方、『基礎づけ』の中で「不完全義務」の例としてカントは「自己実現」や「親切」を挙げる。「自殺」や「虚言」に対して、「自己実現」や「親切」はいつ、どこで、どの程度そしてどの方法で行われたか考慮の余地はあり得る。「自己実現」や「親切」は程度や方法など各々の裁量に従い行為する「義務」であると考えられる。

 

 この意味で、カントが挙げた「自己実現」や「親切」の「義務」は「活動の余地」がある「広い義務」であり「不完全義務」である。

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

 ただしオニールも指摘するように、注意しなければならない点は、様々な状況を考慮して採用できたにも関わらず「自己実現」や「親切」の格率を採用しなかった場合、この格率は「義務」に反することになる。なぜなら『基礎づけ』でも『実践理性批判』でもカントが位置づけているように、「義務」は人間の意志を規定する強制力として考えられるからである(※2)

 

【参考:過去記事】

chine-mori.hatenablog.jp

 

■まとめ

 

 以上、2回に渡りカント「不完全義務」を再解釈を行った。ペイトンやベックのように、「不完全義務」を「例外を認める義務」と解釈すると、道徳性の最上の原理の探求及びその確定というカント道徳哲学の目論みから「不完全義務」は大きく外れることになる。また、道徳の「普遍化可能性」を維持するカントの目線への担保ができなくなる。

 

 そこで『人倫の形而上学』をテキストに、「不完全義務」を「活動の余地」を残す「義務」として解釈し直すことでカント道徳哲学の体系に一貫性が保たれるという対案を提出した。

 

 この解釈が妥当であるならば、教育やボランティア活動について倫理学的に考える際にも、「不完全義務」は有効な概念になり得るだろう。

 

  ただしひとつ懸念が生じる。それは、『人倫の形而上学』の中で「不完全義務」に「活動の余地」があることを認める一方、「不完全義務」に「活動の余地」を許容するがため、倫理学はある格率が個々の事例にどう適用されるべきかという判断力を要する決疑論に陥ることをカントが指摘する点である。(※3)

 

 カントの「決議論的問題」に深く立ち入ることは今回できないが、この点にカントは一筋縄ではいかない道徳的葛藤を見ていたのかもしれない。【終わり】

 

(※1)定言命法「意欲の無矛盾性」に関して、次の過去記事を参照.

chine-mori.hatenablog.jp

 

(※2)『基礎づけ』で、カントは「義務」から道徳法則を導出する。一方『実践理性批判』で、道徳法則から「義務」を導出する。

 

(※3)Ⅵ,411 参照.

 

※私の知る限り、「不完全義務」を中心に取り上げた文献は少ない。「不完全義務」を研究する上で、数少ない有益な資料。

●筆者によれば、「倫理的義務」が「不完全義務」であるということは『人倫の形而上学』の基本命題である。

 

【参考:愛と正義の構造】

●「完全義務」と「不完全義務」についての基本文献。